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「最初は、誰かがきっと『やろう』と言い出すだろうから、そしたらそこに参加しよう、と思ってたんだけど、待てど暮らせど話が来なくって」。――10月3日、東京・青山で開催された音楽イベント「沖縄〜東京ピースカーニバル2010」。発案者のミュージシャン、大熊ワタルさんはそう言って苦笑した。
「音楽の力で東京から沖縄へLOVE & PEACEの連鎖を」。そんなキャッチコピーが添えられたこのイベントは、10月末、沖縄で予定されている基地反対の音楽イベント「ピース・ミュージック・フェスタ!(PMF)辺野古2010」に呼応する形で企画されたもの。2006年から続くPMFにも何度も出演し、ステージの上で沖縄民謡を演奏する機会も多い大熊さんだけれど、「沖縄」に対しては以前から、それだけにとどまらないさまざまな思いがあったという。
この日のトークステージで話す大熊さん。
「今年は安保50年だけど、僕も今年で50歳。生まれたのがちょうど、安保改定の年なんです。10歳のときには70年安保があって、自分も大きくなったら『アンポ反対』ってやるんだ、と思ってた(笑)。実際には、大人になるころには安保闘争はほとんど『見えない』ものになってたけど、もちろん安保体制そのものはずっと続いていたわけで。沖縄の基地のこととかを知れば知るほど異常な状況だと思ったし、そうやって基地を『押しつけている』状況に、ずっと居心地の悪さを感じてましたね」
さらにもう一つ、沖縄との「縁」を感じていたのが、「沖縄返還」にまつわる出来事だ。沖縄返還前年の1971年、日米で行われていた「繊維交渉」で、日本政府はアメリカ側の要求を全面的に受け入れ、繊維製品の輸出規制を決める。進行中だった返還交渉を優位に進めるための「交換条件」だったが、当然ながら国内の繊維産業は大打撃を受け、「糸(繊維)で縄(沖縄)を買った」とも揶揄された。当時、ある繊維メーカーに勤務していた大熊さんの父親も担当部署の閉鎖で、800人の同僚とともに転勤をやむなくされたのである。
島唄ユニットの「シーサーズ」とクラリネットで共演。
「親が同じ会社に勤めていた友達もみんな散り散りになってしまったし、父親はその後も転勤続きで、僕は全国を転々としながら育つことになった。『犠牲』とまで言う気はないけど、沖縄返還と一口に言っても、それはいろんなところに影響を及ぼしていたはずで。父親のいた会社だけでも、社員とその家族を含め何千人もの生活が、青天のへきれきで変遷していったんです」
その「沖縄」をめぐる状況に、大きな変化があったのは昨年。政権交代で「普天間基地の県外/国外移設」を掲げる鳩山政権が成立した。しかし「迷走」の末に、今年5月に発表された日米共同声明には、再び名護市辺野古への普天間基地「移設」が盛り込まれるという結果に。一連の流れを見つめながら、大熊さんの中で「今こそ、東京で何かをやらなきゃ」という思いが大きくなっていった。
「基地は沖縄にあるわけだけど、それを『置かせてもらってる』のは東京の人間。その東京で何かをやる機会を設けないと、まず何よりも自分が居心地悪いな、と思ったんです」
「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」でも共演するうつみようこ&河村博司と「満月の夕」を披露。
冒頭の発言は、そのときのことを振り返ってのもの。日米共同声明の翌月には、友人でもある沖縄在住のミュージシャン、伊丹英子さんらがPMF10の開催を宣言。それを機に、誰もやらないなら自分がと、知人に協力を呼びかけ、片っ端からミュージシャンに出演依頼のメールを送った。最終的には、8組のミュージシャンの出演が決定。運営や会場装飾にもたくさんの人たちの協力を得て、この日の開催へと至った。
「壮大な話になっちゃうけど、東京も沖縄も、みんなが気分よく生きていけるような社会でありたい。こういうイベントをやるのは、同じ気持ちの仲間を増やしたいからでもあるんです」。そう話してくれた大熊さんは、イベントのフライヤーにも「互いに気分よく生きていけるような明日のためのマツリを!」という言葉を寄せていた。「明日のためのマツリ」。いい言葉だなあ、と思った。
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「ゴースト・サーカス」
大熊さん率いる「シカラムータ」のサードアルバム。
この日演奏された「不屈の民」「平和に生きる権利」も入ってます。
当日のステージは15時からスタート。オリジナルナンバーとともに沖縄民謡を歌う寿[kotobuki]、元「ソウル・フラワー・ユニオン」のうつみようこ&河村博司、ディジリドゥ演奏の第一人者・GoRo、レゲエシンガーのLikkle Maiなどなど、ジャンルはまさに縦横無尽。間には、米軍再編をテーマにしたドキュメンタリー映画『基地はいらない、どこにも』の短縮版も上映された。(※出演ミュージシャンからのメッセージなどがこちらから読めます)
左上から時計回りに寿[kotobuki]、GoRo、Likkle Mai、うつみようこ&河村博司。
一方、会場の後方に設けられたトークステージのメインは、かつて『NEWS23』のデスクを務めたジャーナリスト、金平茂紀さんを迎え、大熊さんと『基地はいらない、どこにも』の小林アツシ監督が聞き手を務めるトークセッション。出演決定が発表されたときはちょっと驚いたけれど、聞けばもともと金平さんが大熊さんのファンだった縁で実現したゲスト出演なのだそう。
金平さんはTBS報道記者としてまる2年を過ごしたニューヨークから、今年9月に帰国したばかり。昨年の政権交代以後、普天間と辺野古をめぐるワシントン発日本メディアの報道は、端から見ていても「どこの国の記者の原稿?」と思うようなものばかりだった、と話してくれた。
左から大熊さん、金平さん、小林監督。
「特に新聞社や通信社の場合、ワシントン支局に来るのは、日本で外務省や防衛省を担当していた記者がほとんどです。今、『記者クラブ』がいろいろと問題になってますけど、その記者クラブがアメリカに移動してきただけ、みたいなもの。取材ソースもすごく貧困で、何かあるたびに同じ人に話を聞きに行くんですね。テレビのコメンテーターと同じで、『この人に聞けばこういう答えが返ってくるはず』という『出来レース』なんです」
その代表格が、ブッシュ政権でアメリカ国家安全保障会議のアジア上級部長を務めるなど「知日派」といわれる政治学者のマイケル・グリーン。日本暮らしが長く、日本語にも堪能なことが日本人記者らに重宝される理由だが、スタンスは非常なタカ派だという。一方で、やはり知日派政治学者のチャルマーズ・ジョンソンなど、「沖縄には海兵隊は必要ない」と主張する人物も少なくないのに、そこに取材に行く記者はほとんどいない。
10月からTBS「報道特集」のキャスターも務めている金平さん。今後の活躍が楽しみ。
「結局は、メディアの人間の力量が非常に劣化してるということ。もちろん私も、その劣化を食い止めることができなかったという意味で非常に責任を感じていますが…こうしたメディアがつくり出した『民主党政権は日米同盟に傷をつけようとしている』という論調が鳩山政権をどんどん追いつめていった、メディアが(普天間基地県外/国外移設断念の)片棒を担いだと、個人的には思っています」
昨年からの報道をずっと目にしながら、ぼんやりと抱いていた違和感を、明確な言葉で説明してもらった感じ。「メディアの中にいる人間として絶望感を持っているけど、責任を放棄するわけにいかないとも思っている」という金平さんの言葉に、期待したくなった。
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『報道局長 業務外日誌』
3年間にわたるウェブマガジン連載をまとめた金平さんの著書。
巻末には大熊さんとの対談もアリ。
さて、この日ステージのトリを飾ったのは「ジンタらムータ」。大熊さんが率いるユニット「シカラムータ」のアコースティック・バージョンだ。大熊さんのクラリネットを筆頭に、ホーン、ドラム、ギター、そしてチンドンスタイルのパーカッション、という構成である。
思わず踊り出したくなる「ジンタらムータ」のステージ!
中南米でのデモなどでよく演奏されるという「不屈の民」、軍事クーデターで虐殺されたチリの音楽家、ビクトル・ハラの「平和に生きる権利」…どれも個人的に大好きな曲で、嬉しくなってしまった。最後は他のミュージシャンも加わって、ステージいっぱいの大人数で沖縄民謡の「ヒヤミカチ節」へ。ステージ上も客席も、もちろんカチャーシー、カチャーシー。
金平さんがこの日、トークの中で紹介してくれたエピソードがある。かつてアメリカのバージニア州に住んでいたころ、地元の「沖縄県人会」の集まりに招かれて行ったことがあるのだそう。バージニア州には米海軍・空軍の基地があり、沖縄駐在時代に結婚した米兵の夫とともに渡米した沖縄出身の女性が大勢住んでいるのだそうだ。
沖縄料理が振る舞われ、みんなが思い思いにおしゃべりを楽しむ、沖縄で言う「ゆんたく」そのままの光景。やがて音楽が始まり、みんながカチャーシーを踊り出す。金平さんがふと見ると、妻に連れられてきていた米兵たちまでが、一緒になって踊り出していた――という。
シーサーズ。後ろのスクリーンには島唄の歌詞の意訳が映し出される。
「音楽というのは、『越境する』ものだと思います。いい音楽は誰が聴いたっていいし、国家なんてものを自然に超えていってしまう。僕が先週まで行っていたアフガニスタンでも、歌舞音曲が禁止されていたタリバン時代を経て、今みんなすごい勢いではじけているというか、音楽を楽しんでいる。それを聞いて、アメリカ軍の兵士だってニコニコしちゃうこともあるわけです。
互いに反発していきり立ってるときにも、『もっと楽しいことがあるじゃないか、ばかばかしい』と思わせてしまう、音楽にはそういうパワーがある。沖縄は、そのパワーをすごく持っている場所だと思います」
話を聞きながら、思わず深くうなずいてしまう。そういえば、PMF10実行委員で沖縄在住のミュージシャン、知花竜海さんがこの日寄せていたメッセージにも、「(PMFを)価値観の違いを乗り越えて、一緒に踊れる場に」との一文があった。音楽だけですべてが解決するとは言わないけれど、金平さんの言う「音楽の力」を感じたことは数限りなくあるし、それはやっぱり小さな、けれど確かな希望だと思う。この日のイベントも、それを改めて信じさせてくれる機会の一つになった気がする。
三線とギター、クラリネットの音色が重なり合う。こんな「競演」もフェスの楽しみ!
この「ピースカーニバル」が「東京から沖縄へのメッセージ」なら、沖縄での「ピース・ミュージック・フェスタ!」は、それに応えての沖縄からのメッセージ、ということになるのかもしれない。
「次は辺野古で」――この日、合い言葉みたいにあちこちで繰り返されていた言葉。「ピース・ミュージック・フェスタ! 2010」は10月末、名護市辺野古の浜で開催される。
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