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2013-08-07up

伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2013年6月29日@渋谷校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。

憲法の急所と創造力
~法律家の先を読む力~

講演者:
木村草太氏(首都大学東京准教授、元伊藤塾塾生・第8期)

2003年 東京大学法学部卒。
2003年から2006年まで 東京大学大学院法学政治学研究科助手・憲法専攻
現在 首都大学東京法学系准教授
著書『憲法の急所』(羽鳥書店、2011年)は法科大学院での講義をまとめたもので、「東大生協で最も売れている本」と話題になる。他にも『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書、2012年)『憲法の創造力』(NHK出版新書、2013年)など多数。

 「法解釈をする上でもっとも重要なのは、“先”を読むこと」。そう語るのは、法学者の木村草太さん。趣味の将棋になぞらえて、「それも、ココセ(自分にとって都合のよい手を相手に期待することを意味する将棋用語)解釈ではなく、相手がもっとも厳しい反論をしてくるという前提で解釈を進める必要がある」と説明します。
 そもそも、法解釈をするとはどういうことでしょうか。まずは法文を読んで、その法文が適用される事案の帰結を考えるのが重要なのはもちろんです。しかし、それだけでは十分とはいえません。「法解釈は、その事案だけでなく、未来の他の事案にも適用されることに注意が必要です」。
 例えば、違憲性が指摘されている非嫡出子の相続問題について考えてみましょう。「不均衡な相続をさせること自体がおかしい」から違憲だ、という解釈をすると、確かに、非嫡出子の相続差別は解消されるかもしれません。しかし、この論拠によるならば、相続分に相続人間の区別を設ける遺言制度全体が違憲だという帰結を導いてしまいます。これはさすがに不都合でしょう。
 「法律とは一般性、抽象性を持つものであり、それゆえに常に社会的影響を伴うものです。その社会的影響への考慮は、個別事案の帰結を考える以上に重要ともいえます。その法解釈が影響を及ぼす“射程”を適切に理解して、解釈を展開する必要があるのです」(木村さん)
 そうした法解釈の例として、「憲法96条改正」をテーマにお話しいただいた部分を以下にご紹介します。

■「過半数」派の論拠を整理する

 2013年の4月から5月にかけて、憲法96条改憲についての議論が盛り上がりました。現在(6月末)はやや沈静化しつつありますが、法律家としては、ここで出た議論をきちんと整理しておく必要があります。

 今回問題になった改憲案は、国会における憲法改正発議の要件として定められている、各議院の総議員の「3分の2以上の賛成」を「過半数の賛成」に変えようというものです。まずは、これを主張する「過半数」改憲派の主張の内容を見ていきましょう。大きく分けると、以下の4つです。

 1つ目は、石原慎太郎さんなどが言っている、いわゆる「押し付け憲法論」。現行憲法は制定過程に問題があるから、改憲しなければならない、というものです。

 2つ目は、橋下徹さんなどが言っている、「国民は信頼できる」という主張。国会での発議要件を「過半数」に緩和して、おかしな改憲案が発議されたとしても、改憲には国民投票の多数決の承認が必要なので、大丈夫だというものです。

 3つ目は、諸外国と比べ、日本の改憲要件は厳しすぎるというものです。これは、誰ということもなく、改憲を主張する人からはよく聞かれる主張です。

 そして4つ目は、安倍首相などが言っている「国民が改憲を望むときに、たった3分の1の議員の意思が障害になるべきでない」という議論です。

 96条改憲派の主張は、一緒にされてしまうことが多いのですが、整理をしてみるとそれぞれ力点を置いているところが違うことがわかります。先を読むためには、相手の主張のポイントを明確に把握することが不可欠です。

◆改憲反対派が採るべき論拠は?

 こうした「過半数」改憲派の主張が説得力を持つのか、改憲反対派の立場からの反論をじっくりと検討しなければならないのですが、まずは、改憲反対派の主張の中にも、あまり説得的ではないと思える議論がいくつかあるので、簡単に見ておきましょう。

 まず、「今の国会は定数不均衡に基づいた違憲国会なので、そこで憲法改正の発議が決められても無効だ」という主張が、改憲反対派の中には見られます。しかし、定数不均衡がいかに大問題であっても、それを言ってしまうと、現国会で制定されたあらゆる法律についての正統性も失われてしまいます。
 法体系の中では法律も重要な法形式であり、その正統性を奪うような主張は妥当ではありません。違憲状態の定数配分の下で選ばれた国会議員ではあっても、国会議員の議席はやはり非常に重たいものですし、最高裁が無効だと言わない限り、有効だと考えざるを得ません。
 もちろん、定数是正は重要な課題ですが、この点で、国会の正統性をなくしてしまうのは得策とは言えません。

 2つ目は、「国民も誤るときがある、だから国民投票に頼るのでなく、発議要件そのものを厳しくしておくべきだ」という主張です。
 もちろん、「国民が誤る」というのは、可能性としてはあるでしょう。しかし、これを争点にしてしまうと、「誤りを犯す国民を主権者にしていいのか?」という議論を導いてしまいますし、相手方からは「主権者である国民をばかにした議論だ」と言われる可能性があります。
 確かに、国民を信頼しきって、国民投票で承認されればなんでもOKと考えるのは、「数の暴力」を許す危険な議論です。しかし、正面から国民は信頼できない、と言い切ってしまうのは、国民主権原理の根本を切り崩してしまいます。国民の信頼性という論点は、注意深く扱わなくてはいけませんから、96条との関係で持ち出すのは、控えた方がいいでしょう。

 このように、改憲反対論の論拠を探すにしても、国会議員としての改憲の資格であったり、国民の判断能力であったりを指摘するのでは、現行の憲法体系の基礎を揺るがす危険があります。反論するなら、そうした基礎的部分には触れずに、相手の主張そのものの矛盾や不合理性を指摘し、その議論が成り立っていないことを明らかにする方が得策です。

◆「過半数派」の主張を検討する

 そこで、先に挙げた4つの「過半数」改憲派の主張を掘り下げて検討してみましょう。

 1つ目の「押し付け改憲論」ですが、これはもっとも弱い主張です。普通、改憲の主張は、憲法の内容上の問題によって根拠づけられます。つまり、憲法の内容にこういう問題があり、その問題をこう解決したいから、こういう文言に変えたい、という議論がなされるはずです。ところが、押し付け改憲論は、内容に不都合があることを指摘しません。
 内容とは無関係な制定過程の不当性を強調するということは、内容には文句はありませんと言っているのと同じことになります。こうした主張は論外でしょう。

 2つ目の「国民は信頼できる」という主張はどうでしょうか。橋下さんなどは、もし国会議員が変なことを提案したら、国民が否決してくれるから問題ないと言っています。
 一見なるほど、と思ってしまうのですが、よく考えるとおかしいです。なぜなら、「変な案を出しても否決してくれる」というのは、「変な案を出してもいい」理由にはならないからです。
 今問題になっているのは、改憲要件に国民投票が必要かどうかではなく、どういう形で国民に発議するのがいいか、より良い改憲案を作るにはどういう手続がふさわしいかなのです。国民が信頼できるかどうかは争点にはなりえないはずです。
 そして、「国民は信頼できる」という主張は、「過半数」の下では国民の判断に頼らなければいけないこと、つまり粗雑で、危険な改憲案の発議がなされる可能性があることを自白するものです。要するに、この主張は、意図に反して「過半数」による改憲発議が抱える深刻な問題を露呈する主張になってしまっているのです。

 3つ目の、諸外国との比較はどうでしょうか。私はこれも、そもそも改憲の理由にならないと思います。
 よく「日本は諸外国に比べて本当に改憲手続きが厳しいのですか?」とか、「日本は改憲回数が少ないのですか?」といった質問をされます。しかし、比較法というのは非常に難しく、そうしたことを一概に比較することはできません。

 まず、憲法の改憲手続きが厳しいかどうかについて考えてみましょう。改憲手続きの要件を定めた条文を並べてみると、確かに、数字の上では日本の要件は比較的厳格な方に分類されるかもしれません。
 もっとも、世界には改憲手続きとともに、改正できない内容、つまり改正限界を決めている国が多数あります。手続きが緩くても、改正できない条項が多ければ、実質的な改憲はできないわけです。そして、改正限界がどこにあるのかは、条文上明らかであるとは限りません。手続きは緩く見えても、改正限界が多ければ、日本よりも実質的には硬い憲法かもしれませんから、一概に比較はできません。
 「過半数」改憲派の人は、議会の過半数で改憲発議ができるフランス第五共和制憲法を持ち出しますが、フランス憲法には改正限界が多く、日本に比べ改憲手続が緩いとは言えない可能性が高いです。また、フランスに学ぶべきというなら、徹底した共和制原理を採用し、天皇制を廃止すべきですが、なぜか、「過半数」派の人は、そのような主張はしません。

 また、改憲回数についても、比較はとても難しいです。例えば、ここ60年間で比較してみれば、アメリカの改憲回数は3回で日本はゼロ回です。しかし、アメリカの改憲内容は、日本では国会法レベルの変更なのです。日本は国会法を戦後20回改正しているので、などという比較をしようとなると、もうわけがわからなくなってしまいます。

 外国と比較してどうかというのはあまり意味がなく、純粋に「96条改正でどんな影響があるのか」を問うのが、この議論の王道だと思います。

◆「過半数」改憲派の核心に踏み込む

 それでは、4つ目の「国民が改憲を望むときに3分の1の議員の意思を障害にすべきでない」という主張はどうでしょうか。これは、「過半数」改憲派の4つの論拠の中では、もっともしぶとい主張だと考えます。そこで、発議要件を過半数に下げるというのがどういうことなのか、もう少し詳しく考察してみましょう。

 「過半数」というのは、民主的な決定の中ではなじみ深い数字で、ついついさりげなく受け入れがちなのですが、3分の2以上という要件を変えるのであれば、過半数のほかにも、3分の1以上にする、4分の1以上にするなど、さまざまな設定がありえることに注意が必要です。そして、いろいろある中で、「過半数」を選ぶというのは、もっともらしいようで一番「せこい」やり方であることを見逃してはなりません。

 現行96条の定める3分の2以上を機能的に観察してみると、広範な合意を得られるような改憲案を作成した上で、発議権を与野党共同で行使してください、という仕組みであることがわかります。この場合、野党は与党案に乗らないことで、改憲発議について拒否権を持っているわけです。
 しかし過半数でいいとなると、政権与党が単独で発議権を独占するシステムが実現してしまいます。逆に言えば、野党が改憲発議拒否権を失うということです。安倍さんが「改憲発議を私に白紙委任してください」と言っているのと同じなのです。
 そして、与党が改憲発議権を独占するということは、与党は自分が望むタイミングで、自分が好きなテーマで改憲発議ができるということ、つまり改憲を政権与党の「道具」として使えるということです。

 ある米大統領が「我が家では大事なことはすべて私が決めます。何が大事かはすべて妻が決めます」と言ったというジョークがあります。決定時期と決定対象とが限定された中で決定権があると言われても、実質的な決定権など無いに等しいわけです。夫は、自分の望む大事なことを、何一つ決定できません。夫は、奥さんの決定がなければ何もできないのに、自分で何かを決めたような外観が作られているだけなのです。
 これと同じで、「憲法という大事なことは国民が決めます。ただし、何が大事かは政権与党が決めます」ということになれば、実質的には国民に決定権があるとは言えません。政権与党が提案してくれないと、国民がいかに望んでいる内容の改憲でも実現できないのです。
 例えば、憲法9条の解釈を変更し集団的自衛権を行使しようとする動きがありますが、集団的自衛権の行使については、世論調査を見ても、国民の反対が強いです。かりに「過半数」で改憲発議ができるようになったとして、安倍政権は、集団的自衛権の行使を解釈の余地なく禁じる条項の付与を発議するでしょうか。誰もそうは思わないでしょう。

◆本気で「憲法を国民の手に取り戻す」には?

 もともと、国民投票というのは、さまざまな工夫をしなければ政権与党の「道具」になってしまう危険があります。
 これを防ぐためには、1回国民投票を行い、もう一度議論をしたうえで再度確認するという「2回投票式」をとったり、国民投票の対象となるテーマについてみんなで議論する「熟慮の日」という特別な休日を設けたりする必要があるでしょう。最低投票率もそうした工夫の一つです。

 しかし、現行の憲法96条には、国民投票のための熟慮期間や最低投票率についてはまったく書いていません。
 その理由は、国会の両議院で3分の2以上の議員の合意を取り付けるというのは大変なことだからです。その「合意を取り付ける」間に、国民に情報が浸透して議論が十分に深まっているはずだという前提があり、だからこそ、国会に改憲発議のタイミングを委ねても大丈夫だ、というのが現行憲法の考え方なのです。
 ですから、発議要件を「過半数」に下げるなら、少なくとも国民投票がきちんと機能するような他の仕組みをセットで入れないといけません。そうでなければ、単に数字を変えただけのように見えても、実は改憲の過程自体が非常に大きく変質してしまいます。

 そして、もし安倍首相が言うように「憲法を国民の手に取り戻す」という論理を本気で実現しようとするのなら、総議員の3分の1で改憲発議を認めて、少数派議員からも国民投票を実施できるようにしたり、あるいは、国民発議を認めたりするなど、もっと国民の多様な意見を反映できるような発議要件でないと説明がつきません。
 例えば脱原発を憲法で定めたいという国民の声が盛り上がったときに、政権与党がそれを阻止しようとしたとしても、発議要件を3分の1ならば、少数会派でも発議ができることになります。あるいは国民から発案する方式にして、例えば何万人以上の署名を集めれば、改憲発議ができるという形もありうるでしょう。

 「国民が改憲を望むときに障害があるのはおかしい」と考えるなら、当然、こういう制度が検討対象に挙がるはずです。それにもかかわらず、そうした制度の検討が全くなされずに、国会議員の過半数にしようという話が出てくるのでは、「政権与党が発議権を独占したいのではないですか」と言われてもしょうがない側面があるということになります。
 結局のところ、「国民が改憲を望むときに、国会議員の反対が障害になってはならない」というのは、「過半数」改正の理由にはなりません。

 ここまで、96条改正賛成派、反対派、それぞれの主張を整理して「先を読んで」みました。双方にさまざまな主張があり、また双方ともにおかしな主張がありますが、先を読むうえで大事なのは、両者の主張の核心部分を見極めて、そこにしっかりと焦点をあてるということです。焦点のぼやけた主張をいくら続けても、お互いに議論は深まらず、平行線が続いて、時間の無駄でしょう。

◆日本国憲法が象徴するもの

 「今の政治家は、憲法を変えるということの意味がわかっていないのでは?」という質問をされることがあります。慶応大学の小林節先生は、自民党内では、日本国憲法に独特の強い思い入れがある議員の方々が、党内や国会の改憲論議を主導してしまっていて、法律に詳しい議員はわりと控えめになっている状況があるのではないか、とおっしゃっています。
 私も、確かにそういう側面はあるかなと思います。憲法を復古主義的に変えることで「敗戦のうさ晴らし」をしたいというような感覚の議員が議論を主導していて、まともな改憲派がそれについていけなくなっているところがあるのかもしれません。

 日本国憲法は、一般人から見ると、国の基本的な事項を定めた法律文書としての「日本の憲法」です。ところが、ある種の人にとっては、敗戦の屈辱を象徴した文書であって、その屈辱を是が非でもぬぐいたい、ということになる。
 このように、日本国憲法という文書が法的な内容以上のものを表象してしまっている面があるということは、今後96条や9条という枠組みを越えて、掘り下げて議論されていくべき問題です。憲法をめぐる議論が、感情論ではなく法的な議論、つまり、冷静で合理的な議論となるような環境を作ることは、法律家の重大な責務の一つだと、私は思います。

 今日は、「先を読む」ことの重要性についてお話ししましたが、私はどれだけ先を読めるかが、その人の法律家としての実力だと思っています。一般市民の方が法律家に出会う機会は、決して多くはありません。一生に一回あるかないかという人がほとんどです。そのたった一度の機会で失敗してしまうと、その人の法律家全体に対する印象が悪くなってしまいます。
 司法制度の基盤は、市民の法律家への信頼です。みなさんも、その「信頼」を得られるよう、自分が法律家の代表という気持ちでシビアに仕事に挑んでいただければと思います。

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