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2013-02-06up

伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2013年01月19日@渋谷校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。

人権としての教育
~地球時代・憲法と子どもの権利条約を軸に~

講演者:
堀尾輝久 氏(東京大学名誉教授、教育学博士)

講師プロフィール:
東京大学法学部卒。東京大学教育学部教授、中央大学文学部教授、日本学術会議会員、日本教育学会会長、日本教育法学会会長等を歴任。現在、「子どもの人権研究会」の代表世話人の1人。教科書裁判において原告家永三郎氏に勝訴をもたらした、東京地裁判決(1971年7月17日、通称杉本判決)に理論的基礎を提供したことなどでも知られる。著書に『現代教育の思想と構造』『人権としての教育』(岩波書店)『子どもの権利とは何か』(岩波ブックレット)『教育入門』『現代社会と教育』(岩波新書)『教育に強制はなじまない』(大月書店)『未来をつくる君たちへ~"地球時代"をどう生きるか』(清流出版)等多数

 いじめや体罰の問題など、学校教育と子どもたちをめぐる課題は一向に改善している様子にはみえません。一方、その対策として強制的にルールを押し付ける動きが進んでいますが、それが子どもの権利という観点から見てどうなのかといった議論は置き去りにされている現状があります。
 人間形成や子どもの発達と教育についての研究をされてきた堀尾輝久先生は、戦後の自由を尊重する教育から徐々に自由が奪われてきた経緯を踏まえ、「教育はこのままでよいのか」と心を痛めています。教科書検定をめぐって争われた家永裁判や、日の丸・君が代裁判など、子どもの権利という立場から数多くの教育裁判に関わってこられた堀尾先生から、教育と法律、子どもの権利についてお話し頂きました。
 なお、当日は次のレジメ(内容紹介)が配られました。

人権としての教育
——地球時代・憲法と子どもの権利条約を軸に——

 安倍内閣が発足し経済・外交問題とともに、改憲と教育問題が重要なイシュウになってきました。体罰やいじめによる自殺も後を絶ちません。
 すでに、前安倍内閣のとき、教育基本法が変えられ、石原前都知事の「破壊的教育改革」や大阪の橋下条例などもあって、教師も子どもも父母も教育はこれでよいのかと心を痛めています。この間、教育関係裁判も続発しました。国民の教育権は死語になったのか。
 「憲法の精神にのっとり」という文言は新教育基本法にものこっています。
 このことをどう考えるか。
 「憲法と教育」といえば、すぐに26条を想起する方も多いと思います。
 それだけなのか。前文、13条、19条、23条、27条などはどうなのか。

 他方で子どもの権利条約は日本の学校にも裁判所にもなかなか壁が高くて入れないようにみえます。私たちは日本の子どもの権利の状況の報告書をもってジュネーブの子ども権利委員会(CRC)に3度訪れました(日弁連も)。
 子どもの権利の視点から憲法(例えば19条や23条)を読めばどうなるのか(国民と子ども)。

 人権と子どもの権利と子どもの人権、これら3つのコンセプトの関係は? 教育裁判にもふれながら、こんな問題をご一緒にかんがえてみたいと思います。地球時代を見据えながら。

 以下は講演の要約です。

■私の戦争体験と戦後教育の理念

 私は1933年に生まれました。軍人だった父を日中戦争で亡くし、自分も軍人になって仇を討ちたいと思っていました。ところが戦争が終わって、突然学校で民主主義を教わるようになりました。人間はそんな簡単に変われるものではありませんが、私たちはそれまでの教科書を墨塗りしていくという体験を通して、価値観が変わっていくことを身体で感じさせられた世代で、反発したりもしながら、少しずつ民主主義を学んでいきました。
 私は大学では法学部でしたが、法律学は好きになれず、政治思想史を勉強したのですが、もっと人間のことをまなびたい、人間とは何かを考えたいと思って、大学院では教育学、教育哲学を学んできました。
 戦後は新しい憲法と教育基本法ができて、軍国主義とは違った、人間を大事にする教育が開かれていきました。戦前は、教師は「国のためになる人間を育てる」という方針でやってきました。その反省から戦後は「人間を育てる」というふうに変わらないといけない、生徒の自主性が尊重され、そのために教師は自由な研究的な実践者でなければならない、ということが奨励されてきたのです。
 「自由」と言っても教師が考えていることを教えればよいというわけではありません。子どもにとって何が重要なのかを、子どもに考えさせる教育をしなければいけないというものです。しかし戦後しばらく経つと、そういう教育がだんだんと統制されていき、教育実践の自由も奪われてきました。私はそれではいけないという思いのもとに、結果としていくつもの裁判に関わってきました。家永裁判(※)に私が関わったのも、そのような経緯からです。

※家永裁判
日本史の教科書執筆者である家永三郎氏が、自らの教科書が不合格とされた教科書検定に関して「学問の自由」「表現の自由」「検閲の禁止」に違反しているのではないかと、国を相手に争った裁判。1965年の初提訴から、1997年の最高裁判決まで32年の長期間争われた。

■子どもの権利をめぐる裁判に関わって

 教科書検定をめぐって行われた家永裁判のひとつで、家永さんが全面的に勝訴した杉本判決(※)というものがあります。私はその判決に多少なりとも理論的に貢献しました。まず家永さんがどういう提訴をしたかと言えば、教科書検定を通して自分の書いた教科書が書き換えられ、不合格になるのは学者としての権利、良心の自由が侵されるというものでした。でも侵害されるのは家永さんの権利だけではありません。私が主張したのは、事実に反することを書かれた教科書を使って学ぶということは、子どもたちの権利、子どもたちの真理・真実を学ぶ権利、知る権利が侵されるのではないかということでした。それが判決に影響を与えました。子どもの立場から教育を問うという視点が、非常に大事だということです。
 この点は、日の丸・君が代訴訟にも関わっています。これらの裁判は複数あるので、今でも続いているものもあります。一般の人の間には、「また負けているじゃないか」とか、「なんであんな裁判をやるんだ」という反応もあります。
 よく誤解されるのですが、あの裁判は単に君が代が好きかどうか、歌うかどうかという問題ではありません。日の丸・君が代を否定したいわけではなくて、歌うことを教師が強制されていることが問題なのです。そうした教師への強制は、子どもへの強制にも関わってくる問題です。国会で国旗国歌法が制定されたとき、「強制を伴わない」ということを政府も確認してきました。しかし、ピアノ裁判(※)での最高裁判決で、教師の内心の自由と、外部行為(職務命令に従う)は別という論がだされ、その後の裁判もこれを踏襲して、君が代を歌うことは内心の自由を侵害しないということで負けてしまっている現状があります。
 ただ負け続けていると言っても、そこで行われている議論の中身を見ると、実は僅差で負けているだけという裁判もあります。最高裁の裁判官の中にも少数意見、反対意見を言っている方が結構いるのです。内心の自由をどう考えるのか、これは憲法と人権を考える上で中核的な問題です。日の丸・君が代裁判は、そういう問題として理解して欲しいと思っています。

※杉本判決
家永教科書裁判のうち、1967年に提訴された第二次訴訟の第一審判決。国民の教育権論を展開し、教科書の記述内容の当否を決めてしまう検定は、教育基本法10条に違反するとした。また、教科書検定は憲法21条2項が禁止している「検閲」に当たるとして、処分取消請求を認容した。家永氏の全面勝訴となった判決。この判決ではじめて「子どもの学習権」が法律用語としても認められた。

※ピアノ裁判
東京都内の公立小学校音楽教諭が、卒業式での「君が代」ピアノ伴奏拒否を理由とする戒告処分の取り消しを求めた裁判。最高裁は、ピアノ伴奏の職務命令は(思想・良心の自由を定めた)憲法19条に違反しないとして、教諭の訴えを退けた。

■いじめと体罰への対応

 戦後の教育は、誰かが押し付けるものではないということ、なかでも国家権力が教育に介入してはならないという意味での教育の自立性と国家権力からの中立性、という原理が強調されてきました。これは憲法が定めている原則です。しかし東京の都知事をしていた石原さんは、「破壊的教育改革」を旗印に押し進めました。「戦後の民主主義的な教育」を破壊するということです。彼は、本来ならば中立であるべき教育委員会の人事を自分の思うように選び、教育委員会の体質を変えてしまいました。
 大阪の橋下さんも、教育委員会を自分の管理下に置いてコントロールしたいと考えています。いま体罰問題がクローズアップされていて、橋下さんは「けしからん、取り締まらなければいけない、教育委員会は何をやってるんだ」ということを連日言っています。それでテレビを見ている人は「橋下さんはなかなかやるじゃないか」と思うかもしれません。でも橋下さんは、「教育は2万%強制」とか、体罰も程度によっては許される(※)というようなことを語っていた人です。橋下さんは、知事時代に日の丸・君が代条例を作っています。市長になってからは、市としても同じ条例を作っている。そういう経緯から言えば、彼がいま「体罰はけしからん」と言っているのは、どういう文脈で言っているのか、疑いの目で見なければなりません。
 橋下さんは、教育委員会が曲がりなりにも独立していることが面白くないのです。だから今回の騒動を教育委員会の責任にして、自分の管理下に置きたいと考えているのです。それは維新の会の教育政策にもなっています。彼にとってはそのためのチャンスでもあるのです。
 いじめや体罰といった問題は、国がルールを作ったらなくなるというものではありません。「いじめ対策を強化すればいい」とか「警察に通報すれば良い」「ゼロ・トレランスだ」という意見もありますが、そうやって上から押し付けても何の解決にもなりません。「仲間がいて楽しい、学ぶ喜びの場が学校なんだ」という環境をつくってあげる必要がある。学校での人間関係をどうするのか、先生と生徒、生徒同士の関係をどうするのか。先生にも生徒にも心にゆとりがあり、自由にものが言え、先生が子どもたちと向きあっている、そういう環境をつくるために、どう条件を整えていくのかというのが、本来の行政の責任だと思うのです。いまの教育委員会の仕事はやってはいけない、余計な仕事が多いのです。

※教育は強制発言(2011年6月12日橋下徹ツイッターより抜粋)
「教育とは2万%、強制です。生まれたての赤ちゃんから大人になるまで、教育は強制そのもの。(中略) 教育は強制ではないとバカな綺麗ごとを言う者が、メディアや評論家に増えてきて、教育現場もそれに流され始めたから、社会のストレスに耐えられない大人が増産されてきているのではないか。教育は強制であるとはっきりと位置付けるべきである。」

※体罰容認と取られる発言(いずれも橋下市長)
2008年10月 府と府の教育委主催の討論会にて(当時は大阪府知事)
「口で言って聞かないなら手を出さなきゃしょうがない」
2012年10月2日 教育振興基本計画を議論する有識者会議にて
「蹴られた痛さ、腹をどつかれた時の痛さ、そういうものが分かれば歯止めになると思う」

■人権と子どもの権利

 日本政府は、自らが批准した「子どもの権利条約」(※)を守る責任があります。それは政府だけではなく、社会の全員が守らなければなりません。子どもたちを枠に入れて、思想信条を押し付けていくというのが石原さんや橋下さんに代表される政治家たちの発想なんです。でも、真実だから押し付けていいかというと、決してそうではないということが「子どもの権利条約」の精神です。「子どもの権利としての教育なのだ」と考えれば、強制ではいけないのです。ましてや体罰という名の暴力はゆるされません。
 大事なのは、子どもに学ぶ自由と喜びを保障することです。「自由に学んで間違えたらどうするのか?」と思われるかもしれませんが、間違っていいんです。それも子どもからみれば大切な学びのプロセスで、間違いから学んでより豊かな真理に向かっていくことができるのです。いまは早く答えにたどり着く教育を良しとしている風潮がありますが、大きく跳ぼうとすれば、長い助走距離をとらなければいけません。子どもがその子なりの自己表現をしていくのを、教師や親が暖かく見守るという関係と環境をつくるべきでしょう。
 それでは、「人権と子どもの権利」とはどう関係しているのでしょうか? 子どもの権利というのは、人権を前提とした上で、なお、子どもは子どもであるとして、子どもの権利を規定しているものです。例えば、フランスの人権宣言では、女性や子どもや労働者がその対象から外れていました。そのあとそれぞれの人権が認められていくのですが、『レ・ミゼラブル』——いまその映画をやっていますが——を書いたビクトル・ユーゴーは、女性と悲惨な労働に苦しむ底辺の労働者、そして子どもという3者の人権を守れるような社会を築いていけるかどうか、ということに注目していました。
 もちろん子どもは人間であり、人権が適用されるということは大前提なのですが、それに加えて子どもは単に「小さな大人」なのではありません。「子どもの権利」という考え方は、子どもは子どもとしての権利を保障されるべき存在だという考え方に基づいています。子どもが発達する権利や学ぶ権利は「子どもの権利条約」に書かれているのですが、そこでは、子どもらしさを軸にした、子どもならではの要求が出てくるということが前提になっています。
 更に言えば、人間は成長とともに、成年期は成年期として、老年期は老年期として要求が違ってくるものです。人間は、子どもであり、成年であり、老人になるのです。そう考えると、「老人の権利」というのが書かれてもいいわけですね。そのような考え方をすれば、子ども時代の権利は、人間にとってもっとも根源的な権利ではないかという捉え直しができるわけです。それは単に人権を子どもに適用すればいいという問題ではありません。
 法律を学ぶ人たちが、人権と子どもの権利と、子どもの人権という3つの視点から考えることは重要です。私は、これまでも教育法学会などでも、子どもの視点から憲法の人権規定を読み直してみようという提案をしてきました。それは、子どもとはなにか、子どもが発達するとはどういうことかを常に念頭において、憲法と子どもの権利条約を重ねて読むということでもあります。
 例えば13条の幸福追求の権利。子どもにとっては安全で安心できる、平和で豊かな自然と人間の環境のもとで成長発達すること、そのためにはあそびと学びが不可欠です。憲法の平和的生存の権利(前文、9条、25条)は幸福追求権の前提ともいうべきでしょう。成長発達と学びと遊びの活動は一体のもので、それにふさわしい教育への権利が認められているのです。それらの権利は子どもの権利条約に明示されています(6条、12条、28条、29条、31条)。我が憲法23条にある国民の学問の自由は、子どもの学ぶ権利に始まり、その学習の権利にふさわしい「教育への権利」(right to education )を軸に26条が位置づくのです。26条の「教育を受ける権利」を保障するのは国の責任だとして、教育への政治介入を容認する論拠とさせてはならないのです。
 子どもにとっての思想・良心、さらに信仰の自由(19条、20条)とは何か、それを保障するとはどういうことか、親の責任、学校の責任は、それぞれどうなるのか。君が代問題ともあわせて深く考えることが求められているのです。こういう問題はこれまでの憲法学では殆ど扱われてはいませんので、若い皆さんにぜひ考えて頂きたいと思います。
 さらにいえば、人権や子どもの権利の問題は、今や地球時代ですから、日本だけで考えることではありません。また、これから生まれてくる子どもという視点からの、未来世代の権利という視点も重要です。まだ生まれていない「未来世代」から、この地球を預かっているという考え方もできるのです。未来世代に対する責任をどのように果たしていくのか、そのことも考えながらこれから教育や法律に関わっていってほしいと思っています。
 私の『未来をつくる君たちへ——地球時代をどう生きるか』もぜひ読んでいただければと思います。

※子どもの権利条約
子どもの基本的人権を国際的に保障するため、1989年に成立、翌年発効した全54条からなる条約。日本は1994年に批准。条約に基づき政府とNGOからの子どもの権利状況の報告書を国連子どもの権利委員会(CRC)に提出し、CRCは政府に所見と勧告を出す。日本政府にたいしては既に3回だされ、子どもの権利条約の視点から改善すべき事項が提示されている。そのなかには体罰やいじめ、競争教育の弊害についても厳しい指摘がある。法曹界にたいしても、この条約が裁判で援用されないことへの批判も記されている。なお、『子どもの権利ノート』(子どもの権利.教育.文化 全国センター)には子どもの権利条約とともに、CRCからの勧告(1−3)も収められていて、学習に便利。
参照:日本ユニセフ協会ホームページ 
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig.html

(構成・写真/高橋真樹)

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