北川裕二(きたがわゆうじ)●1963年生まれ。近畿大学国際人文科学研究所非常勤講師。
「Oです。心配かけています。
おかげさまで、なんとか生延びました。
自宅兼会社で津波にあいました。
ぎりぎり3階へ上がり、ひと晩を明かしました。2階の半分まで水がきました。
家族そろって生きています。
しかし、同じ建物で叔父二人、社員ひとりが亡くなりました。
仕事のすべてが水没。どうなるかわかりませんが、とにかくやっています。
ちょうどさっきからドコモケータイが繋がり始めました。
また連絡します。(3/19)」
*
3・11から三日が過ぎた3月14日、原発が爆発したとはいえ、次第に平常心を取り戻しつつあった僕は、地震のあった当初から心配していた旧友小笠原拓生君(以下O君と略す)の安否を確認しようとメールを送信した。彼は津波に直撃された岩手県釜石市に家族と共に暮らしていた。しかしメールの返信はすぐには返ってこなかった。返信があったのは5日後の3月19日だった。上のメールはそのときのものである。
多くの人がそうだったように、ゴールデンウィークに僕は釜石へと向かった。O君に会う、というのが第一の目的だった。
出発の日、釜石までの列車はまだ全線復旧してはいなかったので、池袋から夜行バスで向かった。早朝釜石の駅前に着くと、O君と奥さんがクルマで迎えに来てくれた。数年ぶりの再会。しばし抱き合う。おみやげには発売されたばかりの細野晴臣の新譜『HOSONOVA』を渡した。
釜石市でもっとも甚大な被害を受けたのは、釜石港からすぐのところにある商店が軒を連ねる旧市街で、まさに釜石市の中心地といってよい繁華街だった。O君の自宅もその一角にあったがが、今は高台にある親戚の家に間借りしている。クルマも流された。今乗っているのは急遽購入した中古車だという。被災した0君の自宅の片付けを手伝うため、まずはそちらに向かった。
小笠原君と奥さんの重子さん。自宅の前で
釜石駅周辺は、ほんとにここが被災地なのかと錯覚してしまうほど既に復旧していて、到着したときは拍子抜けするほどだった。ところが橋を越えて、旧市街に差し掛かると次第に町並みが暗澹たる様相を帯びはじめた。津波の爪痕がその全貌を露にしはじめたからである。
崩壊した夥しい数の、捩れてひっくりかえり、裂けて折り重なった家やクルマ、あるいはその他あれこれの瓦礫が今もそのときのままの状態である。ビルの壁が3階まで剥がれ落ちているところもあり、津波が相当の高さにまで達していたことがわかる。
ああっ、あんなに大きな工場もなぎ倒されている!
O君の自宅隣にある工場も倒壊した
周囲を巡ると、廃墟と化した建物の至るところに赤い×印がスプレーで印されているのに目が留まった。聞くとそこで人が亡くなったことを表したマークだという。とすれば、ほとんどの商店で誰かが亡くなっているということではないか。
×印は、この建物内で遺体が発見されたことを印しているという。いたるところでこの印を目にした
既に映像で何度も観てきたはずなのに、やはりそこには現実の事物だけが持つ生々しい迫力があった。これほどまで大きな力を感じさせるものに、僕はこれまで出会ったためしがない。津波の威力のあまりの凄まじさにただただ圧倒された。
奥さんの運転するクルマで、釜石から隣町の両石町、鵜住居町、大槌町へと向かった。そのすぐ先に井上ひさしの『吉里吉里人』で有名な吉里吉里がある。それらの町で見た光景こそ、今回の津波の真の意味を物語っていた。釜石から両石へ向かうトンネルを抜けると様相が一変したのだ。視界が開け、車内にも明るい陽が差し込んだ。
ここには町があったの! 運転席の奥さんが突然むせび泣きながらそう言った。目の前にはなんにもない。視界が開けたのは、町がなくなっていたからなのだ。
「焦土」と化した大槌町。見渡す限り残骸の山。
大槌町は、奥さんが生まれ育った場所である。奥さんの実家があった場所で、クルマを降りた。
剥き出しになった土台を残してあとは何もない。思い出の品どころの話ではない。建物の間取りだけを残して、後はすべて津波に持っていかれてしまったのだから。
この町では大規模な火災もあった。建物の骨組みまで黒く焼け焦げていた。よく喩えられるように、空襲を受けて辺り一面焦土と化したかのような光景。だが実際はそれよりもっとひどい。津波が、地上のあらゆるもの、人の営みに関わるすべてのものを押し流し、掻き混ぜ、グチャグチャにしてしまったからである。だからそこにいると、津波がまた巨大なとぐろを巻きながら襲ってくるようで、一刻もはやくここを立ち去りたいとおもうのも無理はない。
瓦礫から漂う腐敗臭が鼻をつく。潮と魚介の腐敗した臭いと、物が焼けた臭いや消毒液の臭いが混濁し、これまで嗅いだどんな臭いとも異なる強烈な悪臭が、事態の深刻さをさらに助長する。夏に向けて病原菌の繁殖などが懸念される。
奥さんが自宅跡から、懐かしいレコードを発見した
O君は20代の頃、東京に上京し美術学校で学び、写真家を目指していた。僕はその頃彼と出会った。趣味が合うから一時は毎日いっしょにいたこともあった。その彼が、20代半ばに難病のベーチェット病を患った。病状は次第に悪化し、数年後には全盲になった。
O君がその時どのような絶望感を味わっていたのか、ほんとうのところはよくわからない。毎朝たとえようのない不安や緊張感と共に目覚めたのではなかったろうか。先天的なものではなく、視力が少しずつ失われることに、言いようのない恐怖を覚えたと思う。けれども、どんなに絶望しても決して孤独ではないはずとおもっていた。写真を撮ることはもうできないけれど、O君なら必ず新しい生き方をみつけると。
それというのも、彼には高校生のときから交際のあった女性がいて、東京の生活においても、いっしょに暮らすようになったからである。ベーチェット病の発病はそのふたりが結婚してから数ヶ月後に始まったと記憶している。ふたりは手と手を取り合い、一心同体でベーチェット病に立ち向かい、その重圧を克服していったのだと思う。
そして、しばらくして、ふたりは帰郷した。
いや三人だ。その頃には長女が生まれていたはずだから。もう20年程前の話だ。
大槌町にて
釜石周辺の被災地を一周した後、車の中でO君に3月11日のことを聞いた。O君の自宅は港近くの繁華街にある3階建ての家だった。1~2階が会社事務所で3階が自宅。どこも商店街でもよくみかける一般的な建造物だ。その日はO君を含めて会社に6人が居り、春休みだったこともあって、自宅3階の方には子供たちが10名以上遊びに来ていたという。
14時46分、地震が起こる。地面は船がローリングするように丸く円を描きながら長い時間激しく揺れ、あちこちから物が落下した。立っていられる状態ではない。子供たちをすぐに廊下や階段に避難させた。
地震が止むと、子供たちを近所の避難所へ連れて行かなければならなかった。津波が来るかもしれないからだ。ところが子供がふたりいない! 慌てて探すとコタツの中にいた。さあ、避難所へいくよ。ついてきて! 年長者が年少者を連れて行く。避難所までは歩いて5分ほど。日々訓練しているのだ。後は津波だ。いつ到達するのか、どうするか。一瞬まったりした時間が大人たちの間に流れた。しかもこのとき緊急避難放送、サイレンなどはほとんど聞こえなかったという。停電の所為だったのかもしれない。「今回もどうせこない」大人たちにはそんな過信もあったろう。ただ地震の規模は大きかった。「どうすっぺ」。奥さんは子供たちの所へ向かう事にした。「オレも行こうか」「あんたは家に残って」。
津波はまだ来ない。しかしO君は油断しなかった。ハンディあるゆえの防衛本能が働いたのか、津波に備えて3階に上がった。同僚の叔母と女性従業員の一人がそれに続いた。社員の何人かは港近くの駐車場に向かった。階下に残った叔父二人と社員一人に3階にあがるように呼びかけた。と、そのとき階下で「きた、きたー!!」と叔父が叫んだ。その声の後すぐにドアがパーンと激しく音を立てて開き、津波が怒濤のごとくなだれ込んできた。
津波の濁流がすぐ下にまで迫ってくるように感じられ、屋上に上がった。におい、気温、風力、土煙、すべてがいつもと違う。世界が殺気立っている。ああ、オレもこれで終わりか! 妻のことが心配だ。子供たちが避難所へ向かってから、どのくらい経って後を追ったのかが定かでない。もし途中で誰かと長話などしていようものなら…。一方奥さんの方からすれば、O君を自宅に残らせたのが最大の後悔となった。
階下にも何度も声をかけた。壁を叩いたりいろいろ試みた。しかし返事はなかった。
その夜は叔母と女性従業員の三人で過ごした。ラジオでは今後も10メートルほどの津波も予想されると放送されていたので、いざというときのために食料や飲料水を屋上へ上げて用意した。O君にはわからなかったけれど、星の美しい夜だったという。彼はただその一夜を、津波が引いていく音と建物の軋む音を呆然と聞いて過ごしたのだった。
次の日家族は再会した。全員無事だった。しかし階下に残った三人は亡くなった。襲われた人の中には、家族も、家も、職業も、すべてを失った人もいた。生き延びた人は、帰らぬ人のことを繰り返し思い出しながら、これからどのように暮らしていくのだろう。奪われたぬくもりをどのように取り戻していくのだろう。津波によって引き裂かれたことの代償はあまりに大きいと言わねばならない。
釜石市内にて
僕は、可能ならば、すべての市民は被災地に自ら赴いて、津波の被害を実際この眼で見、全身で感じ取るべきだと思った。映像からは、決して感受できない現実の圧倒的な量の具体性にただ茫然自失となる。これはもう明らかに天変地異が起こったのである。そう思わずにはいられなかった。
天変地異という四字熟語は、それまでどこか神話的世界と結びついた想像上の言葉のように感じてきた。しかし被災地の夥しい残骸の下に身を置いてからというもの、この熟語はそうした想像上の何かを指すものではなく、この震災を寸分の狂いもなく的確に表現する言葉のように思われた。
この前代未聞の大津波で数多くの命が絶たれ、行方不明者が現在も一万人以上いるということは既に誰もが知っている。だが、人々の様々なつながりがどのように引き裂かれたのかということに関しては、まだ広く知られているとは言いがたい。むろん心に深く傷を負い、話しかける事も話しかけられる事も避けたいと口を固く閉ざしたままの人がいたって何も不思議なことではない。
僕は、O君との友人関係を通じて、被災地とのつながりを持つことを選んだ。それぞれの人にそれぞれのつながり方がある。その今あるつながりの価値をもう一度見直して、そこから新たな道を見つけていくほかに未来を再建する方法などどこにもないと思うから。