被災地とつながる

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「日常生活に慣れてしまうのが怖いんです」
 宮城県庁でお話を聞いた担当者の言葉が、強く印象に残った。正直、はじめはよく意味がわからなかった。なぜ日常に慣れることが怖いのだろう。しかし、被災した地域をまわるうちに、その言葉の重みが、ぼくの中でどんどん大きくなっていった。

 4月19日から23日まで、仙台の知人宅を拠点に被災地をまわった。主な目的は、救援物資の運搬とボランティアへの参加。正直に言うならば、被災地をこの目で見たいという思いもあった。
 ぼくは、あの3月11日を東京の会社で迎えた。揺れた。ぐわんぐわん揺れた。デスクの書類や本が散乱し、ビルの柱に亀裂も入った。翌週、福島第一原発で水素爆発が起きた頃は、一日中、ネットで原発関連の情報を追った。スーパーで納豆や牛乳が買えない日がしばらく続いた。それでも、震災から1週間程度でぼくの「日常」は戻ってきた。
 また、その時期から、地震・原発関連の情報を意識的に遠ざけ始めていた。すると、ぼくの中で「震災」も「原発」も、すこし遠くの出来事になっていった。

 4月19日、午前中に東京を出て、午後3時ごろに仙台に着いた。宮城県庁の担当者に物資を渡し、すこしお話をする。この日の作業はそれで終了。仙台の街で牛タンを食べた。店にはしばらく休業していた旨の貼り紙があったが、そこにも「日常」が戻りつつあると感じた。コンビニやドラッグストアにもモノはあふれていた。

 4月20日、ボランティア開始。この日は、仙台をホームタウンとするサッカーチーム・ベガルタ仙台から寄付を受けた約1000足の靴を、石巻や女川の避難所に配った。午前中に仙台で物資をトラックに積み込み、いざ石巻へ。まずは避難所となっている小学校へと向かった。ブルーシートの上にサイズごとに分けられたダンボールを広げ、避難している方に選んでもらう。避難所となっている体育館から50名くらいの方が次々に出てきては、選んでいく。
 「23.5センチないの?」「あー、たしか向こうにありましたよ」
 「色でよ、黒はどこさある?」「ごめんなさいね、このサイズは白だけなんです」
 その場は、さながらバーゲン会場のような雰囲気だ。30分程度で、大方の人が引き上げていく。ぼくたちは残った靴をダンボールにつめなおし、別の避難所へ。基本的にはこの作業を繰り返す。

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 続いて向かった女川には、3家族くらいが集まって暮らす小さな避難所が点在していた。こうした場所では、NPOのスタッフが必要な物資を聞き取り、数日後に運んでいるという。電気はまだ復旧していない。大きな避難所に行かない理由を尋ねると、50代のお母さんが笑って答えてくれた。
 「ペットがいるのよ。人間は9人だけど、ペットが5匹もいるから。それに、桜がきれいでしょ。ウチは毎年家の中から花見ができるの。だからね、これからもここを離れたくないのよ」
 この家があった場所は、海岸線からずいぶん離れているのだが、すぐとなりには船が流れついていた。
 「ウチもね、壁なんかはだいぶ壊れたけれど、瓦礫の中から使えそうなものを探してきてね、いまは自前で風呂もつくったの」

 避難している方の反応は様々だ。震災から1ヵ月。当然、心身ともに疲れている。ボランティアの方にリクエストした物資がないと小言を言う方もいれば、「いつもわがままを言ってごめんね」とやさしく声をかける方もいる。

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 この日は5箇所ほど避難所を回り、最後に1000人単位で避難する小学校へと届けた。
 大きな避難所では、支援物資はひとつ部屋に集められていた。Tシャツなど、衣類に関してはだいぶ余っている印象を受けた。ただ、もう1箇所寄った同規模の小学校では、カセットコンロやガスボンベを自衛隊経由で希望しているがなかなか入らないと言う。ちょうど、ぼくが同行したNPOの倉庫に大量にあるとのことで、翌日、運ぶことにした。

 19時ごろに作業を追え、仙台に戻る。日中はあまり感じなかったが、日が落ちると寒さが身にしみる。道中、震災後の地盤沈下と大潮の影響で、石巻の道路には水があふれ冠水していた。

 4月21日、この日は仙台から松島を抜け、石巻へと向かった。松島では、津波による浸水の形跡は見られたが、倒壊した建物はなかった。景勝で知られる松島湾には小さな島がいくつもあり、津波の防波堤の役割をしてくれたからだと聞いた。

 前日、最後に寄った石巻の小学校にガスボンベなどの物資を届ける。この日、午後から小学校の入学式があったようで、おめかしをした新1年生が、両親と一緒に歩いている。足下の長靴が、若干場違いな印象だったが、おおむね笑顔だ。

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 また、この小学校には、仮設の銭湯がオープンしていた。名付けて「希望の湯」。ここでは東北大学の理系の学生が活躍していた。
 津波の影響で、小学校全体にはヘドロの臭いが充満していた。避難所の衛生状態も芳しくなく、お風呂の存在は心強い。まだ水道も完全に復旧したわけでもないので、身体を洗い、垢のついたタオルは洗うのではなく、ぞうきんなどに利用しているという。

 午後は、同じ石巻市内で「泥かき」のお手伝い。津波で浸水した家の床下には、3~4センチのヘドロが溜まっている。床板をはがし、これをスコップなどでかき出すのだ。
 家の方の話では、津波の水は1階の天井間際まで浸水し、3日間引かなかったという。そのせいで、築40年になるという床の梁も腐ってしまい、ぼくがその上を歩いているときに折れて転んでしまった。幸いケガはなかったが、はがした床板などにはクギが剥き出しになっている。そのクギを踏んでケガをする人も多いと聞く。

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 すでに作業をはじめていた地元の人たちに混じり、黙々と作業をこなす。休憩時間などに話を聞くと、彼らもこの地で被災し、家族や家をなくしている方もいた。職場は流され、収入も途絶えた。避難所で無為に過ごすよりは、地元の人のためになり、収入も確保できると働いている。時給は750円。1日4時間の作業で3000円になる。その日の給料は、作業後すぐに渡されていた。
 NPOが主催するこの取り組みは、「キャッシュ・フォー・ワーク」と呼ばれるもので、スマトラ沖地震の際も実施されたという。「同じ被災者からお金をもらうことはできないが、NPOが払ってくれるので助かる」と話してくれた方もいた。

 作業は4時30分ごろで終了。ひさしぶりの肉体労働はキツかったが、多少の爽快感もあった。ぼくが学生だったら、もっとお役に立てたかもしれない。

 4月22日、この日は気仙沼でドロかきを手伝うことに。三陸道を終点の登米東和まで北上し、内陸部から海へと向かう。海岸線から3キロあたりの山間部から、川沿いに瓦礫が現れはじめる。そして、南三陸町の平地に出た瞬間、景色が一変した。ひとつの街が消滅していた。あるのは、瓦礫のみ。その現実感がない風景を前にして、言葉が出てこない。なんだかふわふわした状況で、とにかく景色を眺めていた。
 再び山間部に入り、気仙沼市に入る。市街地や港近辺は半壊した家屋が多く見られたが、まだ街の体をなしていた。それが、集合場所の東八幡地区に近づくと、先ほどとは別の景色が眼前に飛び込んできた。すべてが赤茶けた瓦礫。震災時の火事の影響だ。そして、そこに巨大な漁船が佇む。

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 瓦礫と化した街をクルマで走っていると、本当に不思議だ。なぜ、この場所には建物が残っているのに、ほんの数メートル離れた家は、すべて焼けてしまっているのか。その不条理に頭が混乱してしまう。そうした思いは、被災した方のほうがよほど強いだろう。この日ドロかきを手伝った家の方は、こう話してくれた。
 「ウチは、地震と津波の被害ですんでまだよかった。川を越えたら、地震・津波・火事だもんな」。さらに、家の向かいの川にたたずむ巨大な漁船を見つつ、
 「あれさ、この津波の記念に残しておけばいいんだよ。こんなにすごかったんだぞって。そしたら、みんな忘れないだろ」と笑っていた。

 ぼくは被災者の方に話しかける言葉を持っていなかった。だから、話しかけられるまでは、基本的に黙って作業していた。でも、この家の方は饒舌だった。
 「地震のときは、石巻に遊びに行ってたの。2日後に水が引いたんで、一度家に戻ったら、ウチのクルマはいないのに、知らないクルマが3台、『コンニチワ』って1階にいてよ。柱が2本くらい折れたけど、基礎は大丈夫だから、まだ住めるかなってな」
 被災者の方々の強さには、本当に救われた。その幾分でも、お返しができていればいいのだけれど。
 作業後、仙台市内に戻り繁華街で食事をした。震災の影響などなかったかのような街を眺めていると、冒頭の言葉が思い出された。
 ここには「日常」を取り戻した人たちがいる(ように見える)。でも、数十キロ離れた場所には圧倒的な量の「非日常」を強いられている人たちがいる。

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 地震と津波によってもたらされた「非日常」を生きる人たちが、「日常」を取り戻すまでには、5年、10年の時間が必要だろう。先に「日常」を取り戻してしまった人たちが、どれだけ「非日常」で耐える人たちを想像し続けられるか、支援し続けられるか、行動し続けられるか。当たり前のことだけれども、そのことの大切さを痛感した。
 東北の街で、クルマからの風景を眺めていて、制服姿を見かけるとなぜかホッとした。どんな大変な場所でも、制服姿に「日常」のかけらを感じたからかもしれない。

 4月23日、仙台を離れ、福島に向かった。滝桜で有名な三春町で、福島の農家を元気づけるイベントが開催されており、それに参加するためだ。三春町の町長は、ユーモアたっぷりの挨拶の中で、やはり風評被害を嘆いていた。
 仙台にいるあいだ、新聞やニュース、インターネットの情報から離れていた。すると、原発関連の情報はほとんど入ってこない。被災した方々は、日々、自分の生活をどう立て直すかに必死だからだ。
 それが、福島に入ると原発の話がほとんどになる。改めて、岩手・宮城と福島の抱えている問題の違いを感じた。いや、それもおおざっぱな区分である。抱えている問題は、その地域、その家族、その人ごとに違う。それぞれの問題にあった解決方法を、国や自治体、NPOや企業などが協力して提示してほしいと切に願う。

 東京に戻ると、ぼくの「日常」が再開された。今回の短い経験を生かすには、とにかくこの「日常」の中で、被災した方たちを忘れないことしかない。そして行動すること。し続けること。そんな、至極当たり前のことを、強く再確認した5日間だった。

 

  

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