戦後「日本国憲法」によって、新しく保障されることになった「個」の尊重と男女平等。戦前の家父長制度にあった、家庭内の理不尽な序列や差別も、憲法上否定され、それに伴い多くの民法が変わりました。女性が自己決定できる立場になり、個人として財産や親権、選挙権を持てるなど、真の人権を得たのは、それ以来のことです。
しかし、自民党の改憲草案は、これらを保障する条文のひとつ、憲法24条の改訂も視野に入れています。私たちは、「平和」「自由」、そして「権利」は、あるのが当たり前として生きてきましたが、それらが当たり前でなくなったらどうなるのか? この「憲法24条を考える」シリーズでは、改憲の動きについて、憲法24条はいかにして生まれたのかについて、また旧憲法下の実体験などを知ることを通じて、身近なテーマである「結婚」「家族」と憲法、そして個人や国家との関係について考えます。
家族内の個人の自由と尊厳を守る。
そんな24条が、平和な社会を支える
前半では「選択的夫婦別姓」の実現を阻んだ、昨年末の最高裁大法廷判決をふりかえりながら、それまでの道のり、そして判決への疑問などを、同裁判の原告弁護団事務局長・打越さく良弁護士に詳しくうかがいました。憲法24条に対しての違憲性が問われたこの裁判からは、個人の尊厳をめぐる日本の現実がいろいろと見えてきます。この裁判と24条改憲との関連、そして問題点を、後半では、さらに掘り下げてうかがいましょう。
●自民草案にも似た判決文が示す、
「家族像」への疑問
——前半のお話では、「選択的夫婦別姓訴訟」の裁判の判決文に、いろいろと驚く点があった、ということでしたが、詳しくうかがえますか?
打越 全体として不思議なことはもちろんですが、判決文としての細部に意外な表現が出てきたのも印象的でした。ひとつは判決文に出てきた「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位」という言いまわし。これ、実は「自民党改憲草案(以下、自民草案)」の24条とまったく同じ表現なんですね。
⚫︎判決理由 第2 2(3)
(略)夫婦及びその間の未婚の子や養親子が同一の氏を称するとすることにより、社会の構成要素である家族の呼称としての意義があるとの理解を示しているものといえる。そして、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位であるから、このように個人の呼称の一部である氏をその個人の属する集団を想起させるものとして一つに定めることにも合理性があるといえる。
※判決主文(PDF)⚫︎自民党改憲草案 24条第一項
第24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
打越 「何? 今、自然かつ基礎的な集団とか言った?」と、耳を疑いました。この表現の引用元は、「世界人権宣言」という文章なんですね。国連の人権委員会というところで批准されたもの。自民草案のQ&Aでも、そう説明されています。そう聞くと、「あー、自民草案って、国際的人権スタンダードに沿って作られたんだ。それなら、いいんじゃない?」とか思ってしまいそうですが、これ、実はそのネタ元とは使い方が違う。元の条文はこうなんです。ちょっと長いですが引用しますね。
世界人権宣言(1948年国連人権委員会にて採択)
第16条
1 成年の男女は、人種、国籍又は宗教によるいかなる制限をも受けることなく、婚姻し、かつ家庭をつくる権利を有する。成年の男女は婚姻中及びその解消に際し、婚姻に関し平等の権利を有する。
2 婚姻は、婚姻の意思を有する両当事者の自由かつ完全な合意によってのみ成立する。
3 家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって、社会及び国の保護を受ける権利を有する。
この3項が、24条改正案1項の参考にされた、ということですが、元々の世界人権宣言では、上記の1項、2項の自由で平等な婚姻・家庭の権利をふまえたのちに3項があるんです。それも家庭が社会及び国の保護を受ける「権利」について語っているのですが、自民草案では、24条の第1項に差し込まれ、しかも「誰に」という主体は書かれず「家族は〜尊重される」と書く。これでは、社会や国でなく、個人に向かって「家族を尊重しろ」、ということにもなりかねないですよね。それに続けて「家族は互いに助け合わなければならない」と、家族を構成するひとりひとりが負う「義務」として書いていますしね。これでは世界人権宣言の趣旨とは違うのではないでしょうか。
——言い回しとしては同じでも、切り取る前とは意味が全然違う感じですね。
打越 別姓訴訟の判決においても、同じ表現が使われていますが、やはり「社会及び国の保護を受ける権利」とは関係なし。「夫婦同氏」を唯一の選択肢とする流れで、家族が同じ呼称を持つことの合理性の根拠として「家族」を「集団」と捉える説明に、唐突に出てきました。それって、世界人権宣言より、むしろ自民草案のほうに近い使い方ではないかと…。まるで憲法24条が、自民草案の憲法24条にすでに変わっていて、そこから引用されているかのような言い方にも聞こえたので、驚いてしまいました。
——確かに。まるで改憲を先取りしたかのような判決、という声も聞かれました。
安倍政権のブレーンで、「教育を通じて国家への愛情を取り戻すこと」を掲げる「日本教育再生機構」の理事長でもある右派の憲法学者の八木秀次氏(麗澤大学教授)は、今回の判決を受けての講演で、最高裁が今回の判決で初めてこの「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位」という言い方に言及したのは「画期的だ」と述べました。個人より家族を基礎にするのか? ともとられかねないこの言いまわしですが、それを使ったこと、さらに「氏」が「家族集団の呼称」であるとし、家族の意義や一体感を最高裁が判決で強調した、と高く評価。それらはほぼ、八木氏自身が判決の前に産経新聞に発表した意見と同じ、として、「(これまでの選択的夫婦別姓に反対する活動を通じてアピールしてきた)私の主張が最高裁判決に取り入れられたと言っても言い過ぎではないと思う」とまで言っていました。
打越 この方、『正論』の論客で、選択的夫婦別姓反対のほかにも、同性婚も頭から否定する方ですよね。さすがに最高裁の多数意見の10人の男性裁判官が八木氏の意見を取り入れたのではないと思いますが。
世界人権宣言は1948年と古いもので、その後も国連からは家族についていろいろな宣言が出ています。1994年の国際家族年の宣言では、家族は社会の「基本単位」であり、「家族にできる限り広範な保護と援助が与えられるべきである」とされています。「自然かつ基礎的な集団単位」という言い回しは踏襲されず、よりシンプルですね。
世界人権宣言のほうは、今読むと「自然」という言葉に違和感を感じます。「それが自然なんだ」と言われると、理屈で話し合う余地がなくなってしまうように感じるからですね。
——家族が「自然かつ基礎的な集団単位」だとされ、その呼称はひとつであるべき、とすると、逆にいえば氏=姓が違う人は、家族にはなれないような感じも。離婚も再婚も、非婚の方や同性カップルも少なくない現代。いろんな家族がいるはずだと思うのですが…。
打越 先ほど触れた国際家族年の宣言では「家庭にかかわる政策の遂行において、明示であれ、非明示であれ、唯一の理想的な家族像の追求を避けるべきである」と言っています。「姓が同じ」だとか、自民草案で定めようとしているように「尊重する」とか「助け合う」など一定の条件に合った人たちだけが「家族」として保護されるのだとしたらおかしいですよね。あまりにも国際基準、現代の基準からかけ離れていると残念な思いです。
●無視された勧告&条約違反。
女性差別撤廃への意志はどこに?
打越 別姓訴訟の判決では、「(夫婦同氏であることは)嫡出子であることを示すために子が両親と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義がある」とのフレーズが出てきたことにも、びっくりでした。この訴訟では、国もこちらも多数文献を出しましたが、そのいずれにも出てこない、唐突な「新解釈」ですから。そもそも「嫡出子」、つまり親が結婚している関係の中で生まれた子と、そうでない子を分けるような考え方は、今の社会ではもう認められないものです。現に嫡出子と非嫡出子との間に相続の差別を定めた「民法900条4号ただし書き」は、2013年に最高裁判決で「違憲」とされて、廃止になりましたが、その際の判決は、個人の尊重の観点に立った、大変妥当と思えるものでした。
「父母が婚姻関係になかったという、子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきているものということができる」(判決文・部分)
こう述べた最高裁判所が今回の別姓訴訟の判断にあたり、上記のようなフレーズを持ち出すなんて信じられないです。先の判決後も残る婚外子/婚内子の戸籍上の記載の違いについても、「なくすように」と、女性差別撤廃委員会から勧告がなされ続けてもいます。それなのに「嫡出子であることを示すために(夫婦同氏には)意義がある」なんて。
——嫡出子であることを示して、どんな意味を持たせようというのでしょう。国連からは、選択的夫婦別姓を認める法制を実現することも勧告されているということですが。
打越 何度も勧告されています。今回の訴訟でも、国連の女性差別撤廃条約に違反することを挙げて、女性差別撤廃委員会からの勧告も証拠にしました。女性差別撤廃委員会は、女性差別撤廃条約を批准した各国が実施しているか進捗状況を確認する委員会で、各国から報告を求め、それに対して見解を示しています。そこから日本政府は何度も、「夫婦同姓しか認めない民法750条は差別的規定であり、選択的夫婦別氏制度を採用することを内容とする民法改正をすべきである」と指摘されています。形式的には中立的な規定であっても、実質上女性差別をもたらすものであることは自明なのです。
最高裁判決後の今年の3月にも、改めて委員会から早期是正を求められてもいます。しかし、この条約違反については、昨年の最高裁では何も実質的な判断を示していません。さすがに条約に違反しないとはいえず、判断を回避せざるを得なかったのでしょうね。
●家庭の中の個人の尊厳を守る24条は、
平和を守る9条と深くリンクする
——21世紀にもなって、選択的夫婦別姓が認められない日本で、そうこうしているうちに、24条改憲がその道を封じようとしているような不安がヒタヒタとせまってくるように感じます。この状況から見える24条改憲の意図をどう考えますか?
打越 「自分の名前を使い続けたい」って、とても大切な、しかもささやかな願いではないでしょうか。そんな希望すら認めないのは、本当におかしいと思います。それはまるで、「制度のためには、自分のささやかな望みは諦めるべきだ」、と国に言われているようで、恐ろしい感じもしますね。
「たかだか氏くらい、どうでもいいじゃない」という言い方をされる方がいますが、「本当にどうでもいいなら、それぞれの好きなようにさせてよ!」と言いたいですよね。実は「どうでもいい」と思っていないのは、選択的夫婦別姓に強く反対している右派の方々のほう。彼らこそこだわっていて、「ひとつの姓にしなければいけない」と思っているわけです。
そうした右派の人たちが指向するのは、戦前の「家制度」に近い家族像、そしてそれをベースにした「戦争ができる国」だったりすることも、一緒に考えなければ、と思いますね。
——それが24条改正案にも表れていると?
打越 自民党憲法調査会や右派の24条見直し議論で繰り返されるのは「日本国憲法の『個人主義』が『利己主義』に変質した結果、戦後の家族や共同体の破壊につながった」という認識です。また、「権利が義務を伴い、自由が責任を伴う」などという誤った考えをもとに、「家族・共同体における責務を明確にするべき」とも言っています。その家族における「責務」の念頭に置かれているのは、男女平等にではなく、「女性が家族を扶助する義務」だと思うんですね。
自民党議員からは、「女性の家庭をよくしようというその気持ちが日本をこれまでまじめに支えてきたと思う」といった発言もありました。そんな言葉から、本音では、家族を扶助する義務を女性に課す、性別分業型の家族を強化し、国の社会保障制度が不十分なところを下支えさせることを狙っているように感じます。
——扶養の義務は、民法にすでにあったと思いますが、なぜ、憲法にも入れたいのでしょう?
打越 民法ですでに、直系血族と兄弟姉妹等はお互いに扶養義務を負っています。にもかかわらず、あえて憲法で扶養義務を規定する意味は、親子関係の規律を強化しなければ、ということではないでしょうか。現在の民法の、個々の対等な関係の規律ではなく、縦の関係、すなわち親子間の関係(未成熟子への親の義務だけでなく、成人した子の、親への義務)が強く意識されているように見えますね。
女性に対しては、子育てをし、「嫁」としての本分を忘れず夫の老親を扶助する、という義務を強化したいと。それをせずして個人として自己実現しようというのは「自分勝手」である、とdisるのではないでしょうか。
——女は家を支えろ、と? では男は何を期待されているのでしょう?
打越 自民党の改憲を巡る議論の中によくあらわれる、「『利己主義』のせいで、『公』がないがしろになっている」という嘆き節からは、男性には「国家を考えろ、国を守るために奉仕しろ」と求める意図が読み取れます。
自民党憲法調査会の中では、「夫婦別姓が出てくるような日本になったということは大変情けないこと」との発言もありました。なるほど、選択的夫婦別姓のようなささやかな望みでも、復古的な国のかたちや、それを支える家族のかたちに固執する人々にとって、とても脅威なのだとわかります。
女性は名前も、ささやかな自己実現への希望も捨てて、ひとつの単位たる「家族」「家」に奉仕しろと説く。そのような考えを広めたい側にとっては「国益よりも家よりも、まず個個人が尊重されるべき」、「性別による差別なく平等であるべき」、という理念を含んだ現憲法の24条は、まさしく邪魔なのでしょう。
そういう観点からすれば、戦前の「戦争ができる国」を復活し、それを下支えした「家制度」を復活するためには、9条の改憲では足りず、24条も改憲する必要があるんでしょうね。自民党改憲草案はその欲望が結実したものといえます。
——なるほど。すごく腑に落ちるお話です。
打越 自民党の議論は、法学者の中里見博さんのご著書、『憲法24条+9条 ――なぜ男女平等がねらわれるのか』(かもがわブックレット)に詳しいので、お読みくださいね。
この話になると、ちょっと熱くなってしまうので、軽い気持ちで読んでる方はドン引きしちゃうかもですね(笑)。忙しい毎日、憲法をめぐる議論なんて自分とは関係ない、って気がしてしまいますよね。でも、そう思っていても今回の改憲は、そんな自分の自由なライフスタイルや家族のあり方をひたひたと縛っていくかもしれないことだと、気づいてもらえたら嬉しいです。
「改憲に賛成か反対か」とざっくりきかれると、「改憲」のほうが何か新しい時代を切り開くような気がしていいんじゃない? という印象を受けるかもしれません。でも、よく知ると、それこそ本気でドン引きしちゃうような、復古的なねらいがあるということにも、関心をもっていただきたいなあと切実に思います。
——安倍首相をはじめ与党の改憲派の多くは、現行の日本国憲法を批判し、否定していますね。
打越 私自身は、日本国憲法はとても素晴らしいと思っていて、中学校のころから暗唱して喜んだりしていたんですけど(笑)、そう思わない方も多いでしょうし、批判するのはもちろん自由ですよね。24条においても「婚姻は両性の合意のみに基づき…」という条文が「同性婚の否定につながる」と指摘する声もあります。私はそこは解釈で対応できるのでは、と思うのですが。
でも、少なくとも、憲法学の大家、樋口陽一先生が「近代法からの逸脱」とまで酷評する自民草案に反対するという点では、まだ多くの人たちが一致できるのではないでしょうか。自民草案では、24条で「単位」としての家族を強調するだけでなく、13条でも「個人として尊重」から「個」を取ってしまいました。たった一字を抜かしただけといっても、重大な変更ですね。それぞれが個性をもつ「個人」として尊重されることが重要なのに、「動物とは種類が違う生物」といった程度の尊重など、あえて書くほどもない、あまりに軽い意味合いです。「個人」の権利でなく、集団を構成する「ひとり」としての権利では、「人権」の保障の意義がありません。
このように自民草案は、家族や共同体から自由な「個人」を認めない。そんな流れの中で、24条や、それを含む日本国憲法全体の条文を変えさせるわけには行かない、という思いは強いです。
そして、「君たちは家のひとコマだし、つまりは国のひとコマなんだから家や国を守って戦え」、などと言われるような社会にはしないことが、大切だと思っています。
——そのためにも、ささやかだけど大切な望み、「選択的夫婦別姓」は、やはり実現させたいですね。
打越 そうですね。判決直後はもう、がっかりするし納得いかないしで、いろいろな疑問がふつふつと湧いてきて、まるでダークサイドに堕ちたような気持ちにもなりましたが(笑)、それでもなお選択的夫婦別姓を求めるみなさんの声に逆に励まされ、「そうだ、前向きに行かなくっちゃね!」という気持ちになってきました。気がつけば参院選を経て、改憲勢力が2/3を占める事態にもなっています。でも、落ち込むことはありません。「改憲勢力」といっても、どの条文をどうこう、というところまで一致しているようには見えませんから。24条は変えさせない。憲法改悪の流れをここで押しとどめないとね。みなさんと思いを合わせて、これからもがんばりたいと思っています!
パートナーシップもあり方も、家族のあり方も人それぞれ。「こうあるべき」という形を国が決めることに大きな違和感があります。さらに「個人」を否定し、かつての戦争の下支えをした「家制度」復活につながる恐れもある24条改憲には、とうてい賛同できません。個人よりも国を優先しようという考え方は、自民党改憲草案全体に見られる傾向ですが、24条はまさにその代表なのではないでしょうか。
1994年の国際家族年の「↓ここが、わからいの」親友の弁護士に聞きました。
「多くの現行の国内政策および計画が、もはや現実を反映していない概念と家族モデルに基づく傾向が、いまだにある。・・・・・中略・・・・諸国は、国内法が家族に対して及ぼす現実的かつ潜在的影響を明らかにするため、各自の国内法の全般的見直しの実施を考慮する機会を持つであろう。」「アァ~これで、世界女性会議が分裂したの」
日本では、夫婦同姓の法律婚(家族モデル=標準家族)を重要視して、選択的夫婦別姓婚や嫡出概念を無くして、婚外子差別を阻むものとして思っています。
追加です。
2015年6月25日に最高裁大法廷の判決を聴いて感じます。
民法750条同姓規定に対する最高裁大法廷の判決は合憲でした。判決は人権侵害と女性差別撤廃条約違反に対する言及を避けています。
しかし、判決では、日本国憲法の第24条(両性の本質的平等)について、初めて具体的な法規範性を認めました。これからの女性運動の礎になるでしょう。
イエ制度とか復古とか言うと現代人から遠い気がするが要は家族を企業に見立てる「企業中心社会」のことではないか。それは政府だけでなく国民の側もそうだと思う。例えばもし男女一人ずつ子供がいて、学費が一人分しかなければ、愛情で結ばれた家族なら、より不利な女児の方を底上げするはずだが、実際はより資金回収が見込める男児に集中投資する。これは企業の発想ではないか。そう考えれば子供の貧困対策や生活保護に一般市民が反発する理由がよくわかる。つまり「潰れそうなライバル企業をなんで自分の金で助けねばならんのだ」ということだろう。残念ながら日本人の感覚、文化に近いのはキリスト教的な現憲法より自民党案なのだろう。だとすれば改憲を阻止するには結婚、出産のボイコットくらいしかないのではないか。本当に残念だが。
【夫婦同氏を歴史的に見れば男女同権から出来た制度】
中国や韓国では古来から夫婦別姓ですし日本も明治以前までは夫婦別姓でした。
それは姓というものが父系制度であり生まれた子供の姓は自動的に父親の姓になるからです。
ただ、日本は欧米流のファミリーネームとして氏を戸籍としたのです。
なので、現実的には問題になっていませんが中国や韓国の子供が父親の姓で結婚しても夫や子供と同姓になれない姓の文化の方が遥かに女性にとって差別的なのです。
日本はこの姓の文化にファミリーネームを足したので多くの家庭では父親の氏になるといる結果になりました。
それは150年ほど前のことなので徐々にその文化を支持する人の割合は減り続けているのです。今まで通りほっといても合理性のない文化なので必ず廃れます。ですが逆に価値観の問題なので世代交代でしか解決しないので大騒ぎしてもしなくても大差無いことだとも思っています。
久しく選択的夫婦別姓の署名活動を続けてきたものですが、今の日本には、残念ながら本当に、最高に値する裁判所が存在しない、という悲しい認識を新たにされたところです。
自民党改憲草案先取りという、打越さんのお話を伺い、わたしも最近読んだ本を思い出したところです。
『あたらしい憲法草案の話』太郎次郎社エディタス
自爆連(略称)が著者です。
よくできています。面白いです。ワザありの中味です。