原発を止めるか止めないか。止めるとしたらいつか。そうした議論の一方で、「なぜ原発ができたか」を振り返ることは3・11後の私たちに突きつけられた課題の1つではないでしょうか。1/19の東京公演を控えた役者・愚安亭遊佐さんは、青森県下北半島の漁村生まれ。ここで暮らす人々の素顔を、ひとり芝居で演じてきました。一方の鎌仲ひとみさんは、映画『六ヶ所村ラプソディー』で、六ヶ所村の人々の日常を映しました。下北半島は、六ヶ所村のほか東通村、大間町の原発、むつ市の使用済み核燃料中間貯蔵施設が集中しています。現地の暮らしに思いを馳せながら、下北”核”半島となるまでの「なぜ」について、たっぷり語っていただきました。
愚安亭遊佐●ぐあんてい・ゆうざ1946年青森県むつ市関根浜生まれ。漁師の網元の8人兄弟の5男。「劇団三十人会」に所属したのち、77年「劇団ほかい人群」を結成。80年より1人芝居を始める。北海道から関根浜に嫁いだ母の一代記『人生一発勝負』、関根浜の漁村の百年史『百年語り』、六ヶ所村の「むつ小川原巨大開発」問題を描いた『こころに海をもつ男』の「下北3部作」で全国を芝居行脚。96年むつ市文化奨励賞受賞、99年第54回文化庁芸術祭優秀賞受賞。著書に『人生途上・旅途上』『アテルイ』(ともに自然食通信社)がある。
鎌仲ひとみ●かまなか・ひとみ富山県氷見市生まれ。早稲田大学卒業後ドキュメンタリー制作の現場へ。1990年初作品『スエチャおじさん』監督、文化庁助成を受けカナダ国立映画制作所へ。93年からニューヨークでメディア・アクティビスト活動。95年帰国、フリー映像作家としてテレビ番組、映画を監督。2003年『ヒバクシャ 世界の終わりに』、06年『六ヶ所村ラプソディー』、10年『ミツバチの羽音と地球の回転』の3部作で被曝と原発の問題を追う。最新作は『内部被ばくを生き抜く』。
◆原発で最も影響を受ける、海で生きる漁師たち
鎌仲
私が初めて愚安亭さんを知ったのは、まだ大学生だった頃。土本典昭監督のドキュメンタリー映画『海盗り(うみとり)』(84年、シグロ)がきっかけでした。1981年、青森県むつ市の関根浜に浮上した原子力船「むつ」の新母港建設計画を巡り、推進派勢力と戦う愚安亭さん(本名:松橋勇蔵)の姿はとても印象に残っています。
愚安亭
関根浜は私の生まれ故郷で、実家は村で一番大きな網元でした。8人兄弟の3番目の兄(松橋幸四郎)は、当時、関根浜漁協の理事でしたが、漁協組合長をはじめとする多数派の理事と対立していました。むつは日本初の原子力船で、もともとむつ市の大湊に仮母港があったんです。それが74年、青森沖を試験航行中に放射線漏れ事故を起こし、大湊の住民は正式な母港建設に猛反対。行き場を失ったむつの新母港として狙われたのが関根浜でした。私は兄たちとともに抵抗し、その経過を撮ったのが『海盗り』です。
鎌仲
全国54基の原発も、もんじゅも核燃料サイクルセンターもすべて海沿いにあります。海を生業にしている人がもっとも影響を受けるにもかかわらず、中央メディアはあまり漁師の暮らしに言及しません。おかしい、不満だと思いながら私、関根浜に行ったことがあるんです。そうしたら、地元の漁師さんはみんな元気がなくて。
愚安亭
プライドを失ってしまったのですよ。多額の漁業補償金と引き替えに漁業権を手放して、漁師たちは骨抜きにされてしまいました。はじまりは81年の元日の読売新聞。「原子力船むつの新母港に関根浜浮上」「関根浜なら八方丸く」という見出しが躍りました。いわゆるアドバルーン記事で、官民共同出資の日本原子力船開発事業団(当時)と青森県が、住民たちの反応を見るために載せたのです。最初はみんな反対し、漁民と行政の闘いでしたよ。しかし、3年もすると漁民同士で賛成派・反対派が対立するように変わるのです。
◆県が公費で人間関係を切り崩す
鎌仲
そこが重要ですね。権力側はどんな工作で賛成派・反対派に分断したのですか?
愚安亭
単純ですよ。金、酒、女、それからばくちで切り崩してくるのです。先ほど、関根浜漁協組合長は推進派だと言いましたが、最初は私たちと同じ反対派でした。しかし、ある時からしょっちゅう黒塗りのクルマが迎えに来て、出かけるようになった。新聞記者が追跡すると、青森市の浅虫温泉で芸者の裾をめくって遊んでいたと言います。関根浜から浅虫温泉まではクルマで何時間もかかりますが、県の職員が送迎までしていました。一方で、反対派だった私の長兄は、悲しいながら県の息がかかった業者からキャバレーに誘われ、夫婦仲が破綻してしまった。ホステスが自宅に「先日はありがとうございました」と電話をかけるのです。情けないくらい男はもろい。最初は「俺は負けねえ!」と言っていたのが、いつのまにかコロッと寝返ってしまいます。
鎌仲
そうした遊興費は、県の公費から出ているんですよね。マスコミで伝えようとしても、普通は信じられないって反応が多いでしょう。
愚安亭
地元の人は、知らないわけじゃなかったんですよ。ある民宿で県職員が漁師数人を接待するという話は、私の耳にも入ってきました。現場に押しかけると、宴会場はもぬけの殻。でも、たばこの煙がのぼっていて、おちょうしを触るとまだ熱い。2階に駆け上がると県水産部の部長、課長、係長と漁民が寝息を立てていました。私は役者ですから、うその寝息かどうかはすぐに分かるんです。「いつまでタヌキ寝入りしているんだ! 起きたらどうだ!」と怒鳴ると、職員たちはムクッと起きてネクタイと背広姿でした。そんなことがしょっちゅうあったんです。
◆祝島で起きたことも下北半島と一緒
鎌仲
親族、夫婦、仲間の信頼関係を、権力が意図的に断絶する――。私が撮った『ミツバチの羽音と地球の回転』の舞台となった祝島(山口県)でも、同じようなことが起こっていました。1982年に上関原発の建設計画が決まると、中国電力は地元にお金をばらまき、賛成派と反対派を対立させました。仲のよかった人同士がいがみ合い、ののしり合った記憶は、原発建設計画が持ち上がって30年がたつ今も地元の人たちの間に残っています。
愚安亭
祝島には芝居の興行で行ったことがありますよ。もう25年も前のことで、当時は「愛郷一心会」を中心に原発反対運動をしていましたよね。文字通り、ふるさとを愛する一心での力強い活動でした。関根浜の場合は、兄の幸四郎が結成した「関根浜海を守る会」が新母港化反対の中核をなしていました。母体となったのは「底建網研究会」といって、幸四郎が「関根浜の若者が漁師で生活できるように」と立ち上げた、20人ほどの集まりでした。ところが、その中にスパイのような行動に出る者がいて、県からの裏取引を持ちかけました。それまで6ヵ月間だった漁期を通年に延長する。沖合3000メートルだった漁業区域を5000メートルに広げる。だから漁業権を放棄せよ、と。関根浜漁協は、これで負けてしまいました。83年に漁業権を放棄。漁業補償金は、当初の6億2000万円から総額23億円と4倍近くにまで引き上げられていました。
鎌仲
まとまったお金の魔力ですね。ずっと一次産業でなりたっていたコミュニティーが、ひとたび大金を手にすることで破滅の方向に向かっていく。私、『六ヶ所村ラプソディー』の取材をしていた頃、久しぶりに『海盗り』を見直したんです。関根浜で起きていたことは、六ヶ所村での出来事とそっくりで驚きました。
◆核燃以前の「むつ小川原巨大開発」を語る意味
愚安亭
関根浜や六ヶ所村の漁業紛争は、非常に普遍的なものです。『漁民闘争史年表』(石田好数編、亜紀書房)という一冊の本には、全国の漁業紛争の記録が残されています。権力側がいかに漁民を懐柔して、漁業権を放棄させるかのマニュアル本で、どの地域でも同じような切り崩し工作に遭ってきました。今、六ヶ所村は核燃料サイクルセンターの立地自治体として知られますが、その前段階の「むつ小川原巨大開発計画」から、漁民たちは断絶されていました。
鎌仲
愚安亭さんの”下北3部作”のうち、『こころに海をもつ男』で描いた時代ですね。
愚安亭
そうです。むつ小川原巨大開発は、六ヶ所村一帯を一大工業地帯にするという国家プロジェクトで、”世界最大の開発”と言われていました。67年頃から、東京の大手不動産会社のダミー会社が六ヶ所村に現れ、次々に土地を買収していきました。中には「大規模な観光牧場を造るから」とだまして農地を買い取った例もあったほどです。その後、69年に開発計画が閣議決定されると、地価は急騰し、土地買いが激化。県は「陸奥湾小川原湖開発室」を設置し、第三セクター「むつ小川原開発公社」が発足されました。権力側は、製品出荷などに使う巨大工業港が必要だとして、大金をまいて漁師たちに漁業権放棄を迫りました。ところが、73年のオイルショックにともなって開発計画は頓挫。代わりにやってきたのが、核燃料サイクルセンターです。不動産屋が買った土地は電力会社に転売され、再処理工場の用地に転用されています。
鎌仲
その間、すいぶん大きなお金が動いたのでしょうね。
愚安亭
六ヶ所村全体にまかれた漁業補償金は、最終的に約600億にものぼるとも噂されました。県庁の水産課に続く廊下は、「いわし廊下」と呼ばれたものですよ。条件交渉のために1回通る度、想定される漁獲高が倍になり、それに合わせて漁業補償金も増えるからです。漁業権放棄を巡っては、途中から単なる条件闘争になってしまいました。漁師たちは「俺は1000万円もらわないと賛成しない」「お前がそうなら、俺は2500万円だ」と言い合い、自分たちの漁業をどうするかという本質が抜け落ちていったのです。
◆中央から来た「お金」が漁師のプライドを奪った
鎌仲
大金を見せて農民から農地を奪い、漁民から海を奪う。巨大権力がしてきたことは、まさに「根こぎ」だと思います。『六ヶ所村ラプソディー』には、上野幸治さんという日本原燃の下請け企業で働く男性が登場するのですが、彼は元漁師で、ご両親は昆布を売って生計を立てています。上野さんのお父さんは、「昔はイカが何杯も取れて、家族みんなで干したもんだ。お金がなくたって、干しイカを束ねて持って行けば物々交換できた。その頃が黄金時代だった」と懐かしそうに語ってくれました。船を置いて再処理工場で働く幸司さんは、お金を稼ぎ、新しいクルマを買っています。でも、父・息子の海にまつわる関係は断絶され、地域の恵みと切り離されてしまった。そうした生き方が、本当に豊かなのでしょうか。今も海を憧憬しながら、「明日はいい風が吹く」「今日はちょっと波が荒れるな」とつぶやく上野さんのお父さんと話していると、切なさがこみ上げてきました。
愚安亭
中央から来たお金は、地元で暮らし、漁師として生きるプライドをズタズタにしました。地域では冗談を言い合って笑う時間が消えて、お金の話ばかりが増えます。
鎌仲
六ヶ所村では、核燃料サイクルセンターなんて存在しないかのように、誰も話題にあげません。それは福島でも同じで、土壌や空気が放射性物質で汚染されていることから目をそらします。六ヶ所村を取材していると、よく地元の新聞記者に「核燃料サイクルセンターがなくなったら、雇用はどうする」と言われました。でも、それ以前になぜ漁業や農業で食べていけなくなったのか。一次産業の根を断絶して「原発しかない」と思わせたのは誰なのか。その根本を見つめ直すことが、今、問われていると思います。
構成/越膳綾子 写真/マガジン9