3月19日(土)、大阪の映画館でトーク。大阪に泊まり、翌、20日(日)は静岡でトーク。2日連続の仕事だ。いや、正確に言うと「仕事」ではない。両方とも講演料はなし。旅費も自分で出した。「そんな仕事をなんで引き受けるんだ」と言われるが、そこまでしても会って話したい人だった。何度も会ってるが、会うたびに新しい発見があるし、教えられる。これだけの体験を持ち、考えを持った人は、なかなかいない。「奇跡の人」だと思っている。これ以上ないほどの極限状況に落とされ、そこから脱出した人だ。文句なしに尊敬する人だ。原田正治さんと植垣康博さんだ。
19日(土)。大阪・十三のシアターセブンで午後3時から映画『望むのは死刑ですか 考え悩む“世論”』の上映があり、上映後、トークが行われた。死刑をめぐって多くの人が話し、討論をする映画だ。問題提起の映画だ。この映画にも出演し、「死刑反対」を訴えていた原田正治さん、この映画の監督の長塚洋さん、そして僕が話をした。この映画について、又、死刑制度について3人で話をし、会場の人からの質問も受ける。普通、映画館でのトークというと、15分か20分だ。次の上映があるし、長い時間はとれない。しかし、この日はトークが1時間以上あり、その後の質疑応答もかなり時間をとっていた。
「死刑反対」を主張した原田さんの話を聞きたい、と思った人が多かったようだ。だって、普通なら「死刑反対」にはならない人だ。『弟を殺した彼と、僕』(ポプラ社)に詳しく書いてるが、原田さんは弟さんを殺された。犯人は絶対に許せない。裁判でも「極刑にしてほしい」と証言した。当然だ。しかし、犯人からは毎日のように手紙が届く。謝罪の手紙だと分かるが一切封を切らない。当然だろう。でもある時、何の気持ちの変化か、封を切って読んでしまった。何通か読み、面会に行った。「許せない」「面罵してやろう」と思った。なぜあんなことをしたのか、徹底的に聞こうとも思った。ところが面会を重ねるうちに、心境に変化が起きた。この本の表紙にこう書かれている。
〈「半田保険金殺人事件」で弟を殺された著者が、彷徨する魂の救済を綴った壮大なノンフィクション!〉
犯人と会い、話す中で、苦悩し、考え続ける。「極刑を望みます」と言ったが、死刑にすれば解決するのか。いや、生きて謝罪・反省をさせ続けるべきではないのか。心は揺れる。そして「死刑にしないでくれ」と法務省に訴える。「被害者の訴え」だから考えるはずだが、無視された。死刑は執行された。愕然とした。そして法務省をうらみ、国家をうらんだという。さらに、死刑制度に疑問を感じ、「死刑反対運動」に参加する。
死刑反対の集会で、僕は初めて原田さんに会った。話を聞き、本を読み、それでも信じられなかった。罪を許したわけではない。でも、死刑はいけないと言う。どうしてそんな心境になれるのか。まるで「神」になったのではないか。そう思った。でも原田さんの闘いはまだまだ続く。家族や今まで裁判闘争していた人からの反発だ。犯人に対して憎しみをぶつけ「極刑にしろ!」と言ってた時は、皆、一致団結して闘っていた。ところが原田さんの心境が変わった。「何だ、許せない!」「裏切りだ」と批判される。原田さんも、皆と一緒に「憎しみ」を共有していた方がラクだっただろう。家族や仲間たちから批判される。原田さんも説明し、納得してもらおうと思うが、ムダだった。「何だ、自分だけいい格好をして!」と思われる。そんな中で、奥さんとも別れた。又、突然、病で倒れた。回復した今も、まだ、話すのが不自由だ。
大変な状況の中で、講演し、討論している。映画館で原田さんの話を聞いた人は、「自分ならどうする」「とても出来ないよ」と思ってしまう。活発な質問が出た。僕も、原田さんにはじっくり話を聞いて、本にしたいと今、思っている。
翌、20日(日)は静岡市のスナック「バロン」に行って、トークをした。店のオーナー、植垣さんは1972年の連合赤軍事件に参加した人だ。リンチ殺人事件では、8人の殺害に参加している。森・永田という最高幹部の命令に従っただけだ。しかし、殺人だけではなく、それ以前の「M作戦」(銀行襲撃、現金強奪)などの罪も問われ、何と27年間も刑務所に入っていた。残酷残忍な人間たちだと思っていた。仲間までリンチして殺すなんて、こいつら人間じゃない、と思っていた。ところが、植垣さんが刑務所の中で書いた本を本屋で偶然見つけて、買って読んだ。『兵士たちの連合赤軍』(彩流社)だ。驚いた。今までの連合赤軍に対する考えが大きく変わった。
確かに許せない犯罪だ。しかし、連合赤軍が出来るまでの赤軍派時代の話は面白いし、やけに明るい。初めは皆、夢や希望を持っていたんだ。それが、どこからなくなっていくのか。同じことを考えている集団は、いつでもこうなる可能性がある。右も左も、又、宗教運動も、「同じ仲間」だけで運動をやっていると、常にこうなる危険性がある。そのことを感じた。その本の書評を書き、それがキッカケになって、この本の出版社が植垣さんを紹介してくれた。刑務所で面会し、出所してからも、何度も討論している。『兵士たちの連合赤軍』は10刷を重ね、新装版では、本の帯に僕の言葉が書かれている。〈この本はまさに教科書だった!〉と。
植垣さんは出所してから、静岡市でスナックを経営している。今年で15年だ。運動に入る前は、普通の学生だった。弘前大学で初めはごくごく当たり前の学生で、学生らしい正義感から学生運動に入る。そして、気がつくと赤軍派の活動家になっていた。さらに武器を持って「革命だ! 暴動だ!」と叫ぶ。その中で植垣さんも順応し、爆弾をつくり、銀行強盗に行く。その全てが成功する。これは不思議だ。別に、外国の軍隊にいたとか、非合法活動をしてたとか、そんな経験はない。それなのに、爆弾と銀行強盗のプロになる。誰にも習わずにやったのだ。それでプロ級だ。
どうしてそんなことが出来るのか、いろいろと話は聞いている。又、植垣さんの凄いところは、一般社会の人々に話せる「共通の言葉」があることだ。やさしく、分かりやすく説明してくれる。それに、運動からは足を洗い、今はスナックのマスターだ。だから安心して、植垣さんの店に話を聞きに来る。「連赤の植垣」を見に来る人もいる。
はじめ、運動は楽しかったのだ。だから、深入りし、他人も誘う。ところが、同じ考えだけで集まっていると、声の大きな人間が主導権をとる。異端を許さない。そんなことが分かり、キチンと話せるのが植垣さんだ。今は左はいなくなり、右ばかりだ。でも、やり口はかつての左と同じだ。愛国心を前面に掲げてのヘイトスピーチ、自民党の改憲運動など…。「日本人として当然だ」「これは常識だ」となり、それ以外のものは全て拒否する。
30年以上前、学生・青年を魅了した〈革命〉。「世の中を変えることこそ青年の使命だ」と思い、活動した時代。変革・革命が当時の「常識」であり、多数派だった。今は逆に、右が「常識」になっている。だから、左右の運動の生き残りが、証言しなくてはならない。運動の「楽しさ」を。同時に、それが過激化し、狂暴になる危険性についても。
「じゃ、2人で対談して、本にしましょうよ」と植垣さんには言っている。
集団の中で声の大きな人が主導権を握り、違う意見が言いづらくなる――そんなときに、自分の意見をどこまで通すことができるのか、同時に異なる意見に自分は耳を傾けることができるのか。これはあらゆる場面で問われることのように思います。