「改憲」「護憲」というマジックワード
編集部
ここ数年は、9条をめぐっての「改憲」「護憲」の論議も活発な時期がありましたが、それをごらんになっていて、どんなことを感じられましたか。
中島
まず、一つあるのは、仮に僕が絶対平和主義を支持していたなら、たとえばイラク戦争のときに、「9条を変えろ」という主張をしたんじゃないかな、と思います。戦力の不保持を謳いながら、同時にイラクに戦力を送っている、あんなことが絶対出来ないようにしよう、と。絶対平和主義を本当に保持するためには、そういうことを許さない9条にすればいいんじゃないか、という発想をもったはずです。とにもかくにも現行の9条のもとで、現に自衛隊がイラクに派遣されたわけですから、そういうことが絶対に出来ない9条に「改憲」すべきと主張するのが筋だと思います。9条を守って、平和が侵されているなら、本末転倒ですよね。
しかし、実際には「平和主義」を掲げる左派からも、そういう声はそれほど上がってこなかった。それは、「改憲」「護憲」というマジックワードにみんな足を引っ張られているからじゃないか、と思います。大切なのは護憲という言葉ではなくて平和を守ることなんですよね。そういう視点から議論がしたいと思います。
そもそも、同じ「護憲派」でも、本当に自衛隊をなくしたいと考えているのか、今の9条も最小限の国防のための、専守防衛の自衛隊は認められると考えるのかによって、立場は全然違うわけですよね。それが「護憲」という言葉によって、覆い隠されてしまっているのだと思います。
編集部
どういうことですか? 自民党は保守政党じゃないんですか?
中島
これは、左翼の定義から考えたほうが分かりやすいと思うのですが、左翼というのは、基本的には人間の理知的な側面、人間の努力によって平等社会がつくれる、進歩が可能だとする考え方です。これが左翼の大枠の合意としてあって、あとはその平等社会をどうつくるかという手段の問題になる。
一つは国家を通じてつくろう、国家が金持ちからたくさん税金をとって弱い立場の人たちに再分配することが必要だ、という考え方。今なら有力なのは社会民主主義や福祉国家論ですね。かつてなら国家社会主義や共産主義です。一方、やっぱり国家というものはどうしても抑圧する側・される側という二分構造をつくってしまうから、個人ベースの連帯でやろうと考える立場もある。その極端な例がアナーキズムということになります。
しかし、保守というのはこの左翼の前提の合意部分をどこかで疑っているんです。つまり、人間の理知的な側面によって人間が進歩した社会を設計できるのかといえば、無理だろうと考える。つまり、人間には嫉妬ややっかみ、エゴイズムといったマイナス感情を捨てきれないし、たとえば生まれ育つ場所や母語、親を選べないとか、さまざまな限界があります。もっと言えば、誰でもいずれ死ぬわけだから、「身体」「生命」という限界もあるわけです。
であれば、その「無限の理性」を信じるのではなく、「人間の限定性」ということから考えて、人知を越えたもの——伝統や慣習や経験値、良識、あるいは神といった形而上学的なものに依拠したほうがまともな社会になるんじゃないか、と。その上で時代状況に合わせた、漸進的な改革をしていくべきだというのが保守の合意なわけです。
だから、簡単に言えば保守というのは過去も未来も全面的には信じていないんです。人間が限界を持つ不完全な存在である以上、過去においても人間社会は不完全だったし、未来においても不完全なまま推移せざるを得ない。その中で、時代状況に合わせて漸進的な改革をしていこう、という考え方であって、過去の一点に戻れば理想社会になるとも、未来に理想的な社会をつくれるとも考えない。そういう立場を保守というんだと、僕は考えているんです。
編集部
たしかに、「護憲」「改憲」という言葉はやや安易に使われがちですし、そうした指摘はしばしば聞かれますね。
中島
一方で、右派もおかしいなと思うのは、憲法を「政府が国民を統制する」ものにしようとしていることです。これは本末転倒です。
近代立憲主義においては、憲法は権力を規制するための国民の側からの縛りなわけですよね。だから、一般国民は憲法に違反できない。憲法99条(*1)に書いてあるように、憲法を守らなくてはならないのは公務員、権力の側なんです。一部の右派の改憲論は、その近代立憲主義の大前提を変えてしまうものなんですよね。
同じように、「憲法の大前提を変えてしまう」という意味で、もっと危険性が認識されるべきだし、左派の人にも批判されるべきだと思うのは、小沢一郎の発言です。彼は「国連中心主義」と言っていますよね。イラクへの自衛隊派遣は国連の合意がないアメリカの政治判断に基づくものだから認められないけれど、アフガンへの派遣は国連のオペレーションである。そして、日本は国連に加盟していて国連憲章のもとにあるわけだから、国連決議に基づいたところに派遣するのがどうして憲法違反になるのか、と。これは実は、憲法の根源にかかわるところで論理を大きく間違えているんです。
(*1)憲法99条:天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。
編集部
憲法と国連憲章の関係性という点ですか?
中島
憲法98条を読んでいただけばすぐに分かると思います。98条(*2)は、第1項で「憲法が国家の最高法規である」と書いています。そして第2項で条約とかはちゃんと守りますよ、と言っていますね。
これは、憲法と条約や国際法、国際規約のどちらが上かというと、憲法なんだという前提をはっきりと示しているわけですよね。つまり、憲法違反の条約とか国際規約が出てきたときには、主権国家である以上は国家の内部の憲法を優先しますということ。これを崩すと「何でもあり」になってしまいます。憲法よりも日米安保、国連の規定が上だということになれば、日本の主体性はなくなって、他の国に追随しなくてはいけなくなってしまう。国家の主権が失われてしまいます。小沢が言っているのはそういう、憲法の根源を変えること。ただアフガンに行くのがいいか悪いかという問題ではないんですよ。
(*2)憲法98条:この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2)日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
ガンディーの思想と9条が持つ「非暴力非武装平和主義」の可能性
編集部
先ほど、中島さんは「絶対的平和主義はとらない」とおっしゃいましたが、非武装の絶対的平和主義としての9条というのは、「非現実的だ」とか「楽観主義すぎる」と批判されるばかりで、これまで実は十分に論議されてこなかったのではないか、という気がします。
そこでお聞きしたいのですが、中島さんは注目する歴史上の人物としてインドのマハトマ・ガンディーをしばしば取り上げ、単なる「歴史上の偉人」ではなくて、たった60年前に生きて活動した一人の政治家として注目すべきだと主張されていますね。ガンディーはインドの英国からの独立闘争において「非暴力・不服従闘争」を訴えたことで知られていますが、「自分は絶対平和主義はとらない」という中島さんが、あえて彼にこだわるのはなぜなのでしょうか?
中島
僕は、ガンディーの主張を、本当にこの社会で実現できるとは、一度も思ったことがないんです。にも関わらず、ガンディーが重要だと思うのは、彼自身も「自分の言っていることを完全に実現するのは難しい」なんてことは、よくよく分かっていた。そのことが、彼の書いたものなどをじっくり読むうちに分かってきたからなんです。
編集部
それはどういうことでしょうか?
中島
生身のガンディーと、ガンディーが生きようとした理念の間には、ギャップがあるんですね。ガンディーは、ガンディーの理念を生きられなかった人なんです。妻との葛藤や家族の苦しみといった問題もあったし、晩年に至っては、自分に「性欲がない」ことを示すために、西洋人の若い女性を横に裸で寝かせるなんてこともやった。それは、決して悟りを開いてなんていないから。もしかしたら自分にはそういう欲望があるかもしれないという疑念があるが故に、それを乗り越えようと試行錯誤したわけですよね。
その、マハトマ・ガンディーという「思想」と、ガンディーという「人物」の間には距離があるということが、彼の示そうとしたことだったと思うんです。だから彼は晩年に「My life is my message」と言った。自分のメッセージは観念的で抽象的な思想にあるのではなく、自分の生きてきた道だ、矛盾も葛藤もいろいろあったその人生を見てくれ、ということですよね。
それに、ガンディーは彼が考えたような人間社会の理想が一気に実現するなんて、まったく考えていなかった。彼が何度も言っていた言葉に「良いものはかたつむりのように進むのです」というものがあります。つまり、急進的な革命なんかよりも、漸進的な改革をせよということで、ある種の保守主義的な部分がある。同時に、「私ができることは自分の手で触れるものの範囲です」とも言っていて、だから村落社会の中で、自分でチャルカ(糸紡ぎ車)を回すことにこだわった。理念というものは、自分の生きている身近な世界で、一つ一つの物事と具体的に関わる中で、諸価値の葛藤の間からこそ生まれてくるんじゃないか。それが、ガンディーという人の根本にあった発想なんです。
ですから、ガンディーは、人間の限界、能力の限界、理性の限界を深く理解していたのです。そして、その限界を謙虚に受け入れた上で、人智を超えた神や歴史的伝統に依拠して、漸進的な改革をしていこうとした。具体的な共同体を重要視し、国家と個人の間にある中間団体での人間交際を重要視した。
そして、ガンディーはものすごい葛藤と苦しみと矛盾を抱え込みながら生きようとした人でした。欲望を完全に捨て去るなんてことは不可能だと分かっていて、しかしそれに届くような人間の努力は必要なんじゃないのか、と考えていた。物質文明におぼれ、快楽を全面的に肯定するというのはあまりにも野蛮ではないか、メタレベルの理想を掲げた上で、それに少しでも近づこうとする挑戦は続けるべきなのではないかと考え、行動した人物なんです。
やはり、人間というのはある種のメタ的な理念を持つものです。そして、そこに至らない自己を反省する。福田恆存は「戦後左派は絶対者のいない絶対主義だ」と批判しましたけど、絶対者を置くということは、それに至らない自己の不完全性を謙虚に見つめるという行為です。ガンディーは、そのことを深いレベルで理解していた。
編集部
私は、昨年末ごろ、中島さんが解説をされていたNHKの番組「マハトマ・ガンディー 現代への挑戦状(知るを楽しむ/私のこだわり人物伝)」を興味深く拝見していました。人間ガンディーとしては、家庭では暴君だったんですね。しかしガンディーが主張し、政治的な手法として使った「非暴力・不服従」による抵抗は、決して「無抵抗」ではなく、「積極的な抵抗運動」として効果があったから、ガンディーの様々な手法の中でもとりわけ強いインパクトを持ち、インド独立のシンボルとなった。そしてガンディーが掲げた「暴力もカーストも宗教対立もない」理想社会は、結局インドにおいて実現しなかったけれども、「究極の理想」を掲げて挑戦し続ける「意志」を持つことは意味があるし、だからこそ前進したこともあるのではないかと、改めて思いました。
中島
絶対平和主義、あるいは今の形の9条において、可能性があるとしたら、メタレベルにおいてだと僕は思います。つまり、カントの言葉でいう「統整的理念」です。絶対に実現しないけれども普遍的なある理念を掲げることで、そこから自分と自分たちの社会を逆照射し、それに近づこうとする意志を持つことができる。実現不可能な究極の目標みたいなものですよね。カントはその統整的理念と、一般的な理念(=構成的理念)を区別したわけです。それで言えば、平和を守るためにはこうすべきだというベタな理念と、絶対平和主義というメタの理念は違う、ということです。
柄谷行人さんと議論したときにも、「9条がベタなレベルでの理念として実現できるとは思ってもいない」という話になりました。しかし、それを統整的理念として掲げることによって、現実を批判し続けるための指標にできるのではないか、と。そのような方向に向けて、永遠に努力し続ける営為こそが重要なのではないか、ということです。それがおそらく今の9条の持つ可能性であり、意義かもしれません。
ただし、私はそれを憲法の条文とすることには、疑問があります。憲法は、あくまでも「国民が権力に縛りをかけるもの」です。だから、現実に存在する自衛隊をしっかりと規定することは、極めて重要です。
9条は「憲法」ではなく、中沢新一さんが言うように「世界遺産」などのほうがいいんじゃないでしょうか。人類が永遠に獲得できない理想として、メタレベルに据えるのがふさわしい。しかし、先程話したとおり、現状では日本の国家主権を守るために、9条を保守したほうが、戦略的にいい。本来は、非対称的で不平等な条約である日米安保を大幅に改正した上で9条を改正し、自衛隊を明記するのがベストだと思いますが。
一見対極? とも思えそうな中島さんと「素人の乱」の意外な共通点。
「保守」や「革新」の根底に流れる思想を知ることで、
立場の違いに関係なく大切なことや、打破しなければいけない問題が、
よりはっきりと見えてくる、そんな気がします。
中島さん、ありがとうございました!