朝日新聞へのバッシングがとどまるところを知らない。
朝日は8月5、6日に自社の従軍慰安婦報道に対する検証記事を掲載し、いわゆる「吉田証言」を撤回。また9月11日には木村伊量朝日新聞社長が会見し、東京電力福島第一原子力発電所事故での吉田昌郎元所長への「吉田調書」をめぐり、所員が命令に違反し撤退したとの報道を取り消した。
調査報道は両刃の剣だ。返り血を浴びることもある。当初非公開とされた「吉田調書」をこじ開けたのは成果だったが、その解釈と報道に誤りがあった。誤報が批判されるのは当然だ。しかし、過ちて改むるは憚ること勿れ。誤った点を謝罪することは評価しこそすれ、官民一体でバッシングとは納得がいかない。
週刊誌やライバル新聞は、水に落ちた犬は叩けとばかりだが、誤報のない雑誌社・新聞社などあるまい。ましてや読売、産経両新聞は、朝日の誤報を拡販材料にしているようだ。過ちを認めて謝罪している同業者への仕打ちとしては、あまりにも醜い(まあ、小欄で紹介したように、読売はほぼ“プラウダ”なので誤報する機会は少ないだろうが)。
木村社長の会見は「吉田調書」取り消しの謝罪が主眼だったはずが、同じ吉田ということもあってか、いつの間にか「従軍慰安婦問題で朝日社長が謝罪」という話になっている。ここに意図的な混同はないだろうか。
何よりも、「吉田証言」が撤回されたことで従軍慰安婦問題自体がなかった、原発所員が撤退していなかったことで吉田元所長を祭り上げ民主党政権が悪かった、と本質から目を逸らせようとする記事があふれかえることに危機感を抱く。
思い起こすのは、1972年の沖縄密約漏洩事件だ。中心人物である毎日新聞政治部記者だった西山太吉さんの名をとって「西山事件」とも呼ばれる。澤地久枝さんのノンフィクション『密約―外務省機密漏洩事件』や山崎豊子さんの小説『運命の人』など、作品化・映像化された有名な事件だ。
日米間の沖縄返還協定をめぐり、米国が支払うべき土地原状回復費を日本が肩代わりする密約が結ばれていたことを西山さんは掴んだ。紙面化した後、西山さんと情報源とされた女性事務官は逮捕され、西山さんは1審では無罪となるものの、結果的に2人とも有罪となった。
確かに、紙面化する前に社会党議員に情報を渡したのは、その意図を問われても仕方があるまい。しかし、情報の入手方法に問題をすりかえ、密約の存在を否定し続けたのは、本来責任を問われるべき政府だった。その後2000年に米公文書館で、25年間の秘密指定が解かれた書類の中に密約を裏付ける文書が発見され、西山さんの記事の正しさが証明された。
男女間のプライバシーの問題と、政府が国民をたばかった密約問題とは次元が違う。だが、検察は起訴状に「情を通じ」などと書き加えることでこれをスキャンダルにした。今回の朝日バッシングでも躍起になっている週刊新潮などが、このときも底意地の悪い下品な記事に仕立てたのは言うまでもない。
今回も同じように目を逸らされるのか、それとも問題の本質を直視できるのか、問われているのは私たちだ。(中津十三)
グダグダ文句言ってないで、これを機会に、ピンチをチャンスに変えて、上の方でふんぞり返ってる爺さんを下克上して、成り上がりましょう〜!世の中ポジティブシンキングで行かなくては!いや、マジで。ただでさえこの業界、高齢化進んで、上の方つっかえてるんだから、この機会を逃すと、還暦まで丁稚奉公ですよ。
① いくら朝日新聞をバッシングしても、慰安婦問題、原発事故がなかったことにはならない。本質から目を逸らせようとする新聞社、週刊誌の意図は何か。何かに怯えているのだろうか。何を隠したいのだろうか。そこには主権者、つまり「国民」という視点が欠落していることだけは間違いない。このことは国際社会の信用をどれだけ失うか計り知れない。 権力は腐敗する。これは歴史の教訓である。だから国や権力は批判の対象であり、そうでなければ民主主義は成りたたないのだ。その最前線にて監視の役割を果たすのがマスコミの仕事であろう。とすれば、時流に媚び権力者にへつらう新聞社には誤報はほとんどあり得ない。 「過ちて改むるは憚ること勿れ。誤った点を謝罪することは評価しこそすれ、官民一体でバッシングとは納得がいかない」。この指摘は見逃せない。しかもとても危険だ。批判の許されない社会の悲劇は永遠に歴史が語っているからだ。
ましてや、民主主義の劣化に手を貸し、その上、朝日の誤報を拡販材料にしているとしていたら余りにも狭量だ。相手の敵失を攻撃することで業績を伸ばそうとする姑息な手段。これは、自らの能力の限界を宣言しているようなものだ。
② 冤罪はなぜ起こるのか。人権侵害の最たるものだ。 検察を参考にしっかり内部検証をして欲しい。そして、より一層国民の知る権利に奉仕して欲しい。 検察庁をなくせとは誰もが言わない。
「廃刊」せよ、と居丈だけに叫ぶジャーナリスト。私には、彼らは民主主義を醸成するのではなく民主主義の破壊者に映る。なぜなら、民主主義は国民が権力を監視し、批判し、改善を要求することができるから進歩すると考えるからだ。
人は努力している限り、間違いを犯すものである(ゲーテ・劇作家)。