「安保法制違憲訴訟の会」の共同代表を務め、マガ9でもおなじみの塾長こと伊藤真弁護士によると、「訴訟のゴールは、立憲主義と国民主権の回復。そのために違憲の安保法制を廃止させることが必要。また憲法を守ることが、国会議員の最大のコンプライアンス(法令遵守)だ。その当たり前のことを、この国に根付かせなければならない」と、この訴訟の意義を語っています。
裁判の原告としては、戦争被害者や体験者、基地や原発の周辺住民などをはじめ、広く国民に参加してもらうことを想定し、申し立て費用や弁護士費用の負担を無償として、気軽に参加できるようにする予定とのこと。
この裁判の意義や原告への呼びかけなど、広く市民に知ってもらいたいと考え、マガジン9でも随時、安保違憲訴訟の動きについて、寄稿をいただきながら紹介していきます。
脱線国家を、道に戻そう
志田陽子
(安保法制違憲訴訟原告)
意思決定の仕組みが……
「憲法」は、《人間のために働く国家》のあり方を確定したルールです。これを守る統治が「立憲主義」です。今、もっとも深刻な問題は、統治者が守るべきルールを守らない、とりわけ《権力を分散させて独裁を防ぐ》という立憲主義の土台を踏み外していることです。議会も、裁判所も、政権(行政府)の追認機関としてしか働けないという状態は、長い間続いていました。政府が安保関連法案を国会に提出したとき、集団的自衛権行使容認の根拠とされた「砂川事件」最高裁判決は、まさにこの流れを決定づけた判決でした。今ではここに「司法の独立」に反する政治的干渉があったことが知られています。私たちはこれを当たり前のことと思ってはいけないのです。
2014年7月からの安全保障をめぐる国政の動きには、こうした問題が凝縮されていました。たとえば、軍事衝突の口火切り(平時から有事への切り替え)が起きる初動のところ(グレーゾーン)での対処が、閣議決定のみで決められ実行される仕組みになっています。そのような方式にするということ自体も、法案審議以前に閣議決定で決められていました。ここに法律の手綱をかけようとした野党の主張・法案はすべて否決されました。
そして、このことを「憲法問題」として考える足場そのものが、憲法改正によって外されていく流れにあることが、さらに深刻な問題です。現在公開されている自民党改憲草案の緊急事態条項は、事態宣言が行われると、内閣が法律と同じ効力をもつ政令を制定できることとなっています。議会(国民の目)を通さない意思決定が憲法の名において通るということは、日米安保体制が議会とは別の意思決定ルートによって動き出すという今の状況を「憲法上OK」とする仕組みが作られるということです。
決定の仕組みが憲法に反する、国民主権の原理に反する、という問題は、日本では長く続いてきた問題でした。上の問題については、1952年から日米の間に「指揮権密約」があったことが明らかになってきました。これは、「戦争になったら自衛隊は米軍の指揮下に入る」という密約です。集団的自衛権の行使は、武力行使も後方支援も含めて、この土台の上に乗っているわけです。そうだとすると、この土台をリセットしない限り、日本が「戦争できる国」になったらその手伝いを「断れない」、ということです。「できる国」になっておいて、自らの判断で「しない」という自制をすればいい、という理想論は今の時点では成り立たない、ということです。
考えるべきことを真に考えているか?
万が一、本当に国民の生命や生活が現実的危機にさらされる事態が起きたとき、軍事的に反撃すれば首尾よく自己防衛できると思うほうが楽観的すぎるでしょう。本当に命が危ないときには、逃げるしかない。ところが、今の国民保護法制の下では、公共機関や民間施設の各種協力はさまざまに定められていますが、国民が一斉に避難できる筋道は、現実的には確保されていません。また、仮に避難できたとして、日本国民が難民として海外に逃げる場面をリアルに想像してみたとき、他国の戦争被害者を受け入れない国が、何事かあったときに他国に助けてもらえるでしょうか? このように、軍事以外で、多くの課題と道があります。国民の生命と生活を第一に考えるなら、それを真剣に考えなければならないはずです。
自衛権の行使は、本来ならば違憲であるものを、どうしても必要な場合に限ってやむを得ず使うというものですから、その必要性と不可避性(他に有効な手段がないこと)が論証できない場合には憲法違反です。他の手段を真摯に検討することなく、武力行使や、武力行使と一体化することが明らかな軍事的後方支援活動を許容する法律群を制定したことは、やはり憲法違反でしょう。
また、政府が2014年7月時点で示した「武力行使の新3要件」にあった「必要最小限度」という歯止めも、2015年9月に議決された事態対処法では、「合理的と判断」されれば武力行使ができる、という条件に変わっています。これは、限定どころか、広範な許可になってしまう言葉です。2014年時点で示された限定を信頼して「これならなんとか合憲」と思った国民は、騙されてしまったことになります。
去年の国会では、後方支援の活動内容に「弾薬」の提供が含まれることが議論になりましたが、その弾薬を搭載すべき武器のほうは、2014年4月、国会を通さず、閣議決定だけで先に解禁されました。今はこれを根拠に「装備庁」が設立され、さらに産・官・学による軍事研究が解禁される流れが始まろうとしています。このように、国民にとって看過できない決定的な事柄が、法案提出前に国会を通さずに決められています。
もう少し過去を見ると、沖縄返還に先立つ1971年、国会では、各種密約に関する質問とともに沖縄米軍基地の核兵器に関する質問が行われていましたが、その答えがないまま審議が打ち切られ、強行採決が行われました。これについても今では、キューバ危機前後とベトナム戦争時、沖縄に大量の核兵器が配備されていたことが明らかになっています。
それぞれの方法で声をあげよう
私たち国民は、安全保障問題について情報と関心を持つことを封じられてきた、といえます。これがずっと積み重なってきたのが、今の日本です。民主主義の担い手である私たちがこうしたことに無関心でいては、この成り行きを止めることができません。人間の「良心」に反することが起きている、と思ったら、参政権の行使、表現の自由、請願、「裁判を受ける権利」の行使や「訴訟の会」への支援など、声をあげる道はいくつもあります。一人の主権者として「これは変えないと」と思ったら、自分の立場で参加できるルートで、声をあげよう――そう考えて、今回の安保法制違憲訴訟に参加しました。
※「安保法制違憲訴訟の会」の最新情報は、こちらから。
志田陽子(しだ・ようこ)武蔵野美術大学 教授(憲法)・博士(法学・早稲田大学)。2000年、早稲田大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。同年、武蔵野美術大学造形学部着任~現職。主著に、『文化戦争と憲法理論』(法律文化社、2006年)、『新版 表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局、2009年)、『映画で学ぶ憲法』(編著)(法律文化社、2014年)、『表現者のための憲法入門』(武蔵野美術大学出版局、2015年)がある。
東京だけでなく、大阪、長崎、さいたま、岡山でも、「安保法制違憲訴訟」の提訴が続いています。長崎では被爆者の方々も原告となっているそうです。形骸化しつつある、この国の「立憲主義」。強行採決された安保法制はその代表です。いま、声をあげなければ、「NO!」と声をあげることさえできなくなってしまう、そんな危機感を共有する人たちが全国で行動しています。
私達は、政治が大津波の様に憲法を乗りこえる光景を見た。立憲主義を放棄する自民党憲法改正草案も見た。でも、内閣支持率が下がらない。とても不思議な国だ、と思っていた。しかし、それは間違っていた。民主主義が成就する前に限界に到達したのだ。つまり民主主義が機能しなくなったのだ。これはとても危険なことだ。民意の誤用が風を切って歩き出すからだ。そして、こういう時代に国民にすーと入り込んでくのが勇ましい言葉を弄して民衆を扇動する輩である。 原因は何処にあるのか。真剣に検証する必要があるのでは。これは世界的傾向なのか、日本だけの問題なのか。憲法学者の知恵を借りたい。私は義務教育過程における主権者教育のあり方に問題の根源があると見ている。