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終戦60周年特別企画 見た・聞いた・体験した「戦争の話し」ジャーナリスト編
幻の特攻隊 人間機雷『伏龍』
残念ながら沖縄では、日本で一番戦争が身近な島。だけど…
●僕の見た大日本帝国と憲法9条

「僕の見た大日本帝国と憲法9条」西牟田 靖

植民地支配を受けた人々の、それぞれの思い
 去年までの4年ほど、朝鮮半島、サハリン、台湾、中国東北部、ミクロネシアといった終戦前後まで日本が統治していた国・地域を取材した。
 各地で日本語教育を受けた方々から、それぞれの戦争体験を聞いたのだが、僕が旅の過程でお会いした戦争経験者たちは、かつての日本のやったことや日本のあり方について肯定する人、否定する人と意見はさまざまだった。だが戦争のつらさ、悲惨さを身にしみて実感しているからか、厭戦の気持ちでだいたい一致していた。


チューク諸島デュブロン島(かつてのトラック諸島 夏島)でお会いしたルーカス・メジェンさんは終戦時19歳。お会いしたときは77歳だった。この島で生まれ、この島で育った。ご高齢にもかかわらず、お元気で口も達者、炎天下の中での案内を買って出てくれた。

 赤道近くに浮かぶ元南洋領、チューク諸島でお会いした元軍属のルーカスさんは、当時物資を艦船に運ぶ仕事をしていて、戦艦大和に乗った経験を持つ。
 日本海軍の基地が諸島に進出してくると、土地はたちまち軍に接収され、自分たちの育てていたヤシの木から自由に実をとることができなくなった。
 日本統治時代に育ち、日本語はもちろんのこと、毎日日の丸を掲揚したり、朝や昼には日本に向かって最敬礼をしたりといった生活を強要された経験を持つ彼は、「こんなこともあったなあ」と流ちょうな日本語で懐かしそうに語るのだった。
 だが彼は、日本の統治のあり方を全面的に肯定するという訳でもなく、「天皇を尊敬する気持ちはない」と明言した。また、イラク戦争が始まったあと彼から届いた手紙には、「センソウハイケナイモノテス」とカタカナで書かれてあった。

 神風特攻隊の身の回りで世話をした台湾の元学徒兵、鄭さんは話がのってきたとき軍歌を颯爽と歌ったりもしたが、話はそのうち日本が勝ち目のない戦いをした愚かさにうつっていき、最後ポツリと「日本はもう戦争しなくていいよ」とつぶやいた。

 また、日本人とのハーフであるパラオのおばさんは、終戦が近くなると空襲の被害を避けるため、野山で家族と昼夜逆転の生活を続けたという。
 彼女は「君が代を歌わされましたし、天皇陛下への忠誠を誓わされました」と淡々と、しかし不本意だったというニュアンスで語っていた。話の内容は戦争のつらい想い出が多く、敗戦にいたるまでの話には厭戦の気持ちに満ちていた。


台湾北部、基隆郊外の山の中の町、平渓にある防空洞。
日本の植民地だった台湾も戦時中、アメリカの空襲を受けた。



皇民化教育に使用された冊子。
韓国の大田(テジョン)にある大田教育博物館に展示してある。


戦争の実感が伴わない中での厭戦・反戦のむずかしさ
 移り変わりの激しい戦後の国際情勢の中で、憲法9条はずっと残ってきた。
 それは彼らのような戦争体験者の厭戦や反戦の気持ちが下支えしてきた、ということが大きかったのではないだろうか。そんなことを彼らと話をして実感した。
 一方、高度成長期生まれの僕には戦争の経験がない。'98年にアフガンなどの紛争地へ取材に出掛けたことはあるが、平和な日本とはかけ離れすぎていたからか、戦争を身をもって知るにはほど遠かった。
 '00年以降、僕は旧日本領の取材を続け、戦争の怖さを経験した世代から話を聞いたことで、知識として「戦争」というものを自分の中に取り入れることができたし、より身近に捉えることができるようにはなった。だが、いくら話を聞いても、戦争そのものの実感はやはりわいてこなかった。

現在、世の中を動かしている中心は、戦後生まれ世代だ。
つまり、実感を持って戦争を捉えている人は、すでに社会の少数派になってしまっている。戦争の実感が伴わない中での厭戦・反戦は難しい。「悲惨だから」といった理由で護憲を掲げても、戦争の実感のない世代には「馬の耳に念仏」だろう。これからは、いいこと悪いこと関係なく、タブーをとっぱらった状態で戦争とは何かを冷静に考え、大局観に基づいた9条の存在意義というものを考える必要があるのではないだろうか。それは早急にやらないと手遅れになりかねない。
 現に世の中は、残念ながら改憲の流れに傾いている。
 '05年8月1日、自民党は初めて条文の形で新憲法草案を公表した。 その案は9条をかなり修正している。第二章は「戦争の放棄」ではなく「安全保障」になり、「戦力の不保持」と「交戦権の否認」が削除され、「自衛軍」の保持が明記された。つまり交戦権を否定せず、海外で武力行使ができる「普通の国」を標榜しているのだ。
 ただでさえ憲法9条は成立以来、換骨奪胎(編集部注:先人の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること)されてきた。
 戦後、日本とアメリカは同盟を組み、日本国内に米軍基地を置いた。また「警察予備隊」(のちの自衛隊)という「軍隊」を戦後10年もしないうちに持った。
 朝鮮、ベトナム、イラクといった国々とアメリカがかかわる戦争では日本国内の基地が少なからず機能したし、今も機能し続けている。
 日本の米軍基地から戦場へと兵士が出掛けていく。しかも最近ではアメリカの戦争のため、自衛隊がイラクという戦闘地域に派遣されるまでになった。今後、ますます戦争にかかわるようになるのは流れとして目に見えている。


この美しく唯一無比の輝きがある9条をいかに戦争の実感なしに守っていけるのか
 日本国内は戦後、戦争にはまきこまれず、ずっと平和を保ってきた。兵役はないし、もちろん他の国に攻め入るようなこともない。限定的ではあるが、国内的に平和を守り抜けたのは戦争を体験した人たちの思いだけではなく、憲法9条が防波堤として機能したからというのもあるのだろう。9条の文面を変えてしまったら、自衛を大義名分にした先制攻撃すら今後起こりうる気がする。
 きっぱりと戦力放棄を宣言している憲法9条は美しい。音読すると清々しい気持ちになる。憲法にこの条項が含まれていることを、僕は日本人として誇りに思う。少し理想的にすぎるような気がするが、唯一無比の輝きがあると思う。この条文を守りたいと思う。だがどうしたら理詰めで9条がいいと言い切れるのか。戦争の実感なしにどうしたら守っていけるのだろうか。危機感を持ちながら日々考えているが、まだ答えは見つかっていない。

本 西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。8カ月間の会社勤めの後、地球の丸さを感じるため、地球一周の船旅へ。以降ライターとして活動を始める。
『深夜特急』の経緯をたどる香港からロンドンへのバス旅、タリバン支配下のアフガニスタン潜入など、世界各地に挑戦的な旅を続けている。

←『僕の見た「大日本帝国」』
情報センター出版局
戦後に生まれ、世界51カ国を旅した著者がサハリンに建つ鳥居を見たのをきっかけに、60年前には日本の領土だった東アジアやミクロネシアに出かける。そこで出会った風景や、住人との交流が、「日本の足あと」を鮮やかに浮かび上がらせている。
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